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コラム > オピニオン

[コラム] 「負けたけど、嬉しい」

    オリンピックで韓国が初めてメダルを手に入れた種目はウェートリフティングです。大韓民国政府が樹立する直前の1948年7月、米軍政治下で、ようやく参加したロンドンオリンピックで韓国人が心の中で期待していた種目はマラソンでした。

    1947年、ボストンのマラソン大会でソ・ユンボク選手が優勝したので、期待するだけのことはありました。しかし、ロンドンオリンピックに出場した韓国選手の成績はあまり優れてはいませんでした。チェ・ユンチル選手が35キロまで先頭を走っていましたが、ペースの調節をできずに、棄権してしまいました。ボストンで月桂冠を手にしたソ・ユンボク選手は27位、一緒にレースを繰り広げたホン・ジョノ選手は25位に留まりました。

    オリンピック参加の経費を作るために、十匙一飯(みんなで少しずつ持ち寄って、一杯のご飯にすること)でお金を出した国民は、お金を集めて購入した後援券を投げ出しながら、「お金を返せ」と騒動を起こしたりもしました。

    優勝候補だった韓国マラソン不振には理由がありました。ソウルからロンドンまで行くのにかかった時間が、なんと17泊18日だったのです。ソウル→釜山→福岡→横浜→上海→香港へは船で行き、香港から飛行機に乗り換えてロンドンに向かったのですが、飛行場があるところですべて乗り換えるため、空路だけでも5日がかかりました。ロンドンへの到着が遅れ、練習する時間が無かったので、選手たちは船舶の甲板や空港の滑走路で練習したそうです。

    旅行期間で、すでに体力が底をついてしまったのです。ウェートリフティングのミドル級のキム・ソンジプ選手とボクシングのフライ級のハン・スアン選手が銅メダルを手にして、マラソン不振の後遺症をそれでも癒してくれました。

    その後、ボクシングはオリンピックに参加する韓国選手団にメダルを抱かせてくれる孝行種目として挙げられてきました。1956年、オーストラリアのメルボルンオリンピックで、バンタム級のイ・チャンフン選手が銀メダルを手にして、1984年のLAオリンピックではミドル級のシン・ジュンソプ選手が金メダルを首にかける喜びを味わいました。リオ五輪の前までは韓国がボクシングの種目で獲得したメダルが金メダル3個に銀メダル6個、銅メダル9個の合計17個にもなりました。

    しかし、2004年、アテネオリンピックで銅メダル2個の獲得に留まった韓国ボクシングは、それ以降、メダルとの縁が遠くなってしまいました。今回のリオ五輪では、選手の出場すら危ういところでした。唯一の韓国選手であるバンタム級のハム・サンミョンも、同じ階級のアルゼンチン選手が棄権したために出場機会を得ることがでたのです。

    ハム・サンミョンは初戦を勝利で飾りましたが、ベスト16の試合で中国選手に0対3、審判全員一致で判定負けしました。中国選手は2014年、仁川アジア大会の決勝戦でハム・サンミョンに負けていた選手でした。ハム・サンミョンは3対0の判定勝ちで金メダルを手にしましたが、中国側は悔しい気持ちを隠すことができませんでした。判定が公正ではなかったという抗議がされました。

    当時、ハム・ソンミョンは「実力で勝てた試合ではなかった」と正直に告白し、韓国の取材陣を驚かせました。

    そして、オリンピックの舞台で正々堂々と戦った後、勝者である中国選手に近づき、彼の手をあげました。中国選手は瞬間慌てたように見えましたが、感謝の気持ちを表しました。

    ハム・サンミョンは、遅れてオリンピック出場が決まったことから練習ができなかったなどの言い訳はしませんでした。実力や体力のすべてにおいて劣っていたと認め、自分を応援してくれた韓国応援団に大きくお辞儀をした後、舞台から去りました。

    仁川アジア大会では金メダルと銀メダルをそれぞれ2個も手に入れた韓国ボクシングが、たった2年後のオリンピックで参加選手すら輩出できない屈辱を味わった背景には、釈然としない判定がありました。アジア大会で韓国びいきの判定の犠牲になったと考えた国の審判陣の逆差別を受けたのです。

    ボクシング選手のハム・サンジンはこのような慣行をやめようと、勝者の手をあげたのです。

    「負けたけど、力いっぱい正々堂々と戦ったので、嬉しい」
  • O2CNI_Lim, Chul | 入力 2016-08-21 08:00:00