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食卓の対話で培われた生活の知恵

  • 「ご飯食べよう」と呼ぶ私の声に子供たちはそれぞれの学校に行く準備を終えて食卓に集まる。4姉妹を持った私は若い主婦の頃から毎朝バタバタと込み合う朝の情景を日常に暮らした。

    長女は、準備を終えてお膳立てを手伝ってくれる一方、次女は遅れたと大騒ぎをしながら立ちながらスープを掬い飲んで出掛けようとせず、三女はヘアスタイルが決まらないと、鏡の前に立って身なりを整え、そんなお姉さんたちの隙を見てあれこれ着てみる末っ子も慌しくしている。

    彼女たちを全員食卓に呼んで、少しでも子供に向かってあれこれ話をする私の口も休まない。

    「いくら忙しくてもご飯は食べて行かないといけないよ、このイシモチがいくらだか知ってるの。この季節のうどは香りがすごくいいのよ、肉一口野菜一口、ゆっくりしっかり噛んで食べたら唾液がたくさん出て吸収もよくなり、体も丈夫になるわ。ほら、肉の切り身と家族の数を考えて、あなたがいくつ食べなければいけないか計算してみて。自分が口に合うものだけ食べ続けたら他の家族がまんべんなく食べることができないでしょう。そのおかずは加減して食べなくちゃ、食べるだけ取って、残さないで…」

    子供たちは、単純な母親の小言に思えるかもしれないが、私はトーンをさらに柔らかくしてでも、短い時間を過ごす子供たちに食習慣を通じて、日常の心構えを教えてあげたかった。

    私は今も孫を連れてくる娘に食卓に置かれたおかずの旬の食材がいくらなのか、どこで手にしたのか、どうやって作ったのか話してやる。これは、親が用意した食卓に対する空世辞ではなく、私たちが毎日接する日常の食卓がいくら感謝すべきことか、いつも思い出させてあげたいからだ。もちろん子供たちは時々、もっと楽に食べたいと泣き言を言う日もあるが、いつからか、今ではその会話に参加して一緒に話を交わしたりもする。

    私は働く母親だったため、短い時間であっても暇さえあれば子供たちが自分しか知らないわがままな子供にならないように育てようと食卓教育をし、目の前に置かれたおかずは、そのすべての領域を教える教材になった。

    食卓教育というと硬く聞こえたり、誤解をもたらすかもしれないが、絶対に間違っていると指摘し訓戒を目的とするのではなく、分かち合いを目的とするならば、有益で楽しくすることができる。

    現代社会は、子供たちが学校給食を通じて食文化や礼節を学ぶため、どれだけ減らして食べようと、どれほど残しても問題とはされず、また、相手と話して食べるときに速度を合わせる理由も分からないだけでなく、自分だけ食べてすぐに立ち上がる生活が食事の礼儀を練習する機会さえ与えない。頭では知っているが、食事は習慣となっているため、意識しなければ難しい。

    食習慣を見れば、その人の人となりを知ることができ、それは日常の中で間違いなく反映されているのをよく見た。だから食卓教育は本当にこの時代に重要なことなのだ。さらに食卓教育をするには、食卓が必要だが、今はもう食卓を囲ん食べる時間がますます減っていることが残念でならない。特別な言葉がなくても、食卓を共にする時に配慮して思いやるなら、素晴らしい食卓教育だ。

    私は私の受講生たちに料理を教えるだけでなく、みんなで作った料理を囲んで食べ、食卓教育をする。夫の実家の両親にどのように接するべきなのか、夫をどのように支え、どのようすれば私を尊く誇りに思ってくれるのか…。多くの時間を願ったり、望んでいなくても、食卓教育は継続される。最初は嫌かもしれないが、愛の心が伝達され、心に長く残る栄養になることを願うばかりだ。

    この時代に愛し合って、大人を尊敬し、兄弟を配慮する心が食卓教育を通じて、よりよく育てられることを願う。
  • 毎日経済 シム・ヨンスン 料理研究院 院長 | (C) mk.co.kr | 入力 2017-04-25 09:23:37