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[コラム] 興南撤収

  • 「吹雪がなびく風が冷たい興南埠頭

    泣きながら呼んでみた、見つけた

    クムスンよ いずこへ さまよい歩くのか

    血の涙を流しながら、俺ひとりで」(歌謡「頑張れクムスンよ」より)

    米国を訪問した文在寅(ムン・ジェイン)大統領がバージニア州クワンティコ国立海兵隊博物館の長津湖戦闘記念碑に献花したあと、記念辞を読んで自身の親が経験したエピソードも紹介した。

    文在寅大統領は「興南から撤収する船に自分の親も乗っていた」と感謝を明かし、「航海途中に米軍が非難民たちにクリスマスプレゼントとしながら飴玉をひとつずつ分けてくれた」という逸話も紹介した。「たとえ飴玉ひと粒だとしても、避難民に分けたという温かい心がいつもありがたかった」という言葉も付け加えた。

    興南撤収により多くの離散家族を作ったことは確かだが、クリスマスに起きた韓国戦争最高の奇跡と言われる撤収作戦だ。

    興南撤収は韓国戦争に参加した国連軍としては仕方がない選択だった。平壌が陥落したあとに北韓の臨時首都だった江界を攻略しようとした国連軍が長津湖戦闘で敗れて撤収することになったのだ。南の元山がすでに中国軍の手中に入っていて、咸鏡道の兵力が南に降りて行く方法は海路しか無かった。

    米軍について南に降りて行くという多くの避難民が埠頭に集まってきた。最初、米軍指揮部は避難民を連れて行くことを嫌がった。避難民を乗せるために時間を遅滞することはできず兵力や物資などのスペースも十分でないうえ、何よりも避難民の中にスパイが混じっている可能性が心配されたためであろう。

    しかし韓国軍指揮官たちの反発と米10軍団の司令官エドワードアーモンド将軍の顧問だったヒョン・ボンハク博士の粘り強い要請で、残る席があれば避難民を乗せるという方針に変更したのだ。

    このような曲折を経て米軍艦艇に乗ることになったのだが、避難民の立場では決して安心することはできなかっただろう。ただ「船に乗らなければ死ぬ」という考えだけだったはずだ。

    「吹雪をものともせずに氷の上で夜を明かした群衆たちは、船が埠頭についたのを見ると突然大声を出しながら埠頭の上に群がり返った。埠頭の上は一瞬のうちに修羅場となった。空砲が発射されて太い綱が張られることでいったん混乱は収まったが、それと同時に今回は子供を失った母親、米袋を落とした夫、洋服が裏返しになった娘たちの泣き声、互いに呼び合う声、探しまわる声、叱りとばす声などで埠頭が流されてしまうようだった」

    作家キム・ドンリ(金東里)は小説「興南撤収」で当時の状況をこう描写した。

    撤収作戦に動員された193隻の船舶で米軍と韓国軍はほとんど被害なく撤収し、10万人の避難民まで救い出した。撤収作戦に参加した最後の船が去った日がクリスマスイブである12月24日だった。その日の午後2時36分に最後の船が興南を脱出する瞬間、まだ船に載せていない物資や装置が港湾施設とともに爆破された。

    興南から撤収した避難民たちは、米軍に対する感謝の気持ちを忘れずにいる。文在寅大統領の親をはじめ数多くの避難民を乗せて興南を後にした「Meredith Victory号」は300トンの航空燃料が積まれていたため避難民を乗せるのにはリスクがあったが、この船のラルー船長は一抹のためらいもなく避難民を乗せたのだ。1万4000人余りの避難民とその警護のための韓国軍の憲兵17人を乗せ、興南埠頭を脱出した。

    最初は避難民を乗せることに躊躇していた米軍だったが、避難民を救うために先頭に立った人たちも米軍だった。そしてこのような証言も出てきた。

    「国軍憲兵たちが、ののしり争いながら船に上がろうとする避難民たちの頭を殴って水に落とそうとしたのを止めたのも米軍で、砲弾が埠頭近くに落ちているにも関わらず1人でも多くの避難民を救おうと最後まで残った船も、米軍の輸送船だった」

    米国を訪問した文在寅大統領が初めて訪れた場所が興南撤収作戦の米軍の遺跡である理由は、単に感謝の気持ちを示すためだったのだろうか。もしかしたら米国が人道主義の精神に満ちていた、あの時の大国らしい風貌を見せてくれることを望む気持ちがあったのではなかろうか。
  • O2CNI Lim,Chul | 入力 2017-07-02 08:58:00