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膝をついたユ・スンジュン、彼の心は国民に伝わったのか


  • 膝をついたユ・スンジュン、彼の心は国民に伝わったのか
歌手兼俳優スティーブ・ユ(39・韓国名ユ・スンジュン)が膝をついた。目頭を赤くした。インターネット放送ではあるが、約13年ぶりに韓国の大衆の前に立った彼は生中継の途中で泣き、笑った。

彼は2002年当時の状況を釈明した。明らかに誤解もあり、真実もあっただろう。彼は「わざと国民を騙そうとしたとか、欺瞞では決してなかった」と謝罪した。遅れて軍隊に行こうともしたが、思うようにはいかなかったと強調した。

最低限の子供と家族への責任感、父親としての彼の姿は真実に見えた。彼の真心がどれだけ伝わったのか正確には分からない。法的基準ではなく、国民感情は大衆に委ねられている。

以下、19日に放送されたスティーブ・ユのアフリカTVインタビュー(シン・ヒョンウォンプロダクション撮影)一問一答

Q. どのようにしてこの場に立つことになったのか。
A. 謝罪する気持ちで膝をついた。この場は心境告白、言い訳の席でもない。皆さんに私の間違いを謝罪する場だ。今日私はもっとも真実であること、私の心にあることをお話しようと思う。

Q. 金のためだという批判もある。
A. (韓国から追放された後)中国にて14本の映画を撮影した。60部作のドラマも撮影した。私が金があると言ってしまうと…絶対に金のためではない。

Q. 韓国に帰ってくることもできるという記事があったが(この日午前、あるメディアは「ユ・スンジュン、入国禁止解除。韓国国籍回復可能」という報道が出て関心を集めた。スティーブ・ユはこの記事を見て泣いたという。しかしこれは「入国禁止を要請した機関長の解除要請があれば、法務部はこれを考慮し検討する」という出入国管理所の原論的な立場が該当記事の核心だった。過去と変わったことはない。兵務庁と法務部は「絶対に不可能」という方針を再度強調した)
A. 現在私は(韓国)入国禁止者だ。観光ビザでも韓国の地を踏むことができない状況だ。

Q. 出入国管理法11条によるものと聞いている。いわゆるどのような人と同等なのか。
A. 私が知るところでは、思想犯や政治犯、そのような人々と聞いている。よく分からないがそう聞いた。

Q. 当時、永住権問題が大きかったと聞いた(スティーブ・ユは幼少期に両親と共に移民した。家族全員がアメリカ市民権者となった状況だった)
A. 米国永住権者は他国にて6ヶ月以上(1年基準)滞在できなかった。そうでなければ永住権が喪失される。だから米国と韓国をぎりぎりに行き来した。父は私の国籍さえも動かそうとした。私さえも知らずに市民権申請を(取得当時)1年前に行った。

Q. 海兵隊の広報大使だったという言葉もある。事実なのか。
A. まったくもって事実ではない。禁煙広報大使のほかには記憶にない。もし会社から(イメージだけ貸す条件で)やっていたら分からない。私は(気にする暇もなく)忙しかった。広報大使と関連した軍隊問題の記事の始まりがある。韓国にて活動する際には通常家までマネージャーが迎えに来てくれるが、ある日はアパートの前で降りた。森の中から記者が走り出した。その記者が個人的な話として「スンジュンが最近よく売れている。体格も良いから軍隊に行かないと」と言った。だから私は「えぇ、行かないといけないでしょう」と答えた。すると記者がすぐに「海兵隊に行ってもよさそうだ」と言った。そして翌日の新聞の一面に「ユ・スンジュン、パク・チャンホ海兵隊に自主入隊する」と記事が出た。その後、軍隊と関連した質問がずっと出て私はまた答えることとなった。

Q. 軍隊に行く考えはあったのか。
A. 私は軍隊についてまったく拒否反応がなかった。幼い頃から健康で団体生活が好きだった。いつも行かねばならないと考え、実際に行こうとした。父も同じだった。

Q. 2002年1月に戻ることができるならば。
A. 当然軍隊に行く。私が下した決定が、時間が流れてこうして大きな物議を引き起こすとは思わなかった。もし、戻ることができるのであれば二度考えずに行く。

Q. 38歳が徴収最多年齢だ。39歳になった今のタイミングが絶妙だ。
A. これまでも私の心境を何度も話した。どうすれば私の気持ちをしっかり伝えることができるかたくさん考えた。しかし、話をしようとするたびにうまく伝達されなかった。どんなインタビューをしても、説明ができない。インタビューフォーマット自体が1時間話しても短く出はしないだろうか。私の気持ちがそのまま伝達されはしなかった。どんな言葉を話しても、つらい非難と叱咤の言葉が多い。正直に私自身も自信がなかった。どう解けばいいのか分からなかった。13年間ほとんど韓国を見ずに生きた。そうしてこそ生きている気分だった。

Q. 勇気を出したきっかけは。
A. 息子が私の歌を歌い、ダンスも踊る。教えてもいないのに、私の問題によって子供たちに影響を与えてはいけないと考えた。長男ジホが学校で「お前の父親は有名な人物なのに、どうして韓国に行けないんだ」という声を聞いたようだ。私が韓国の話をするたびに泣きそうになる。子供が何を知ったのか、だから胸が痛い。だから私が韓国問題だけは…(解決したい)。私もこれ以上私の気持ちを表現できないことは正しくないと判断した。

Q. どのような努力があったのか。
A. 私の身分を諦めて韓国に帰化してでも行きたいと思った。昨年、韓国側と連絡した。その時には満38歳だった。再び軍隊に行かねばという気持ちで父にも話した。所属事務所の代表であるジャッキー・チェンにも「12年が過ぎた今になって、私の気持ちが変わり軍隊に行く」と話したところ、「良く決めた」と言った。「その道が正しいだろう」と。子供たちにも「お父さんは軍隊に行って来る」と話した。すると二日後に韓国側の関係者が私の生年月日を尋ねた。私は1976年生まれだ。聞いたところ新しく変わった法(在外同胞在留資格制限年齢が36歳から38歳に改定された)は1980年以降に生まれた人々に適用される法だそうだ。私は召集対象ではないということだ。結局はまた霧散した。

Q. もしアメリカの市民権を諦めて韓国の国籍を回復する条件で(法的に召集対象ではないが)、軍服務できるようにしてやる。そんな提案があったならば受け入れる意向はあるか。
A. ある。どんな方法でも韓国の地を踏みたい。子供たちとともに堂々と(この際、彼は必死に泣くのを我慢して言葉を失った)韓国に行きたい。以前に、「美しい青年」ユ・スンジュンと呼ばれた。美しくなかったが、美しくあろうと努力した。本当に一生懸命に生きた。若者に良い影響を与えたくて足掻いている姿に、大人たちも喜んでくださったのだと思う。けれど、今私の問題のせいで子供たちは「父親が嘘つき」という声を聞く。インターネット上では稚拙な人間だと書かれている。もちろん十分にそう言われても仕方ない。そう見えた。(彼はまた涙を飲んだ)

Q. 子供たちは父親の過去を知っているのか。
A. 少しずつ大きくなっている。子供たちは私が有名な人間だと思っている。ジャッキー・チェンと映画を撮影したりするので誇らしく思っている。他の父親たちとは違い、私が体格も良いので友人たちが「お前のお父さんはスーパーヒーロー」だと言う。けれど「お父さんがあれこれあって韓国に帰れない」と言うと、「なんで」と聞き返す。答えてやれなかった。「お父さんに悪いところがあった」とごまかしたが、(子供たちが)もっと大きくなれば私が言ってやれる言葉がない。こうして誇らしい父だと信じているのに…。父親として子供たちにそんな汚名を渡してはいけないと思って勇気を出した。

Q. 子供たちは今香港に来ていると思っているのか。
A. お父さんはインタビューを受けに行くと話した。「行ってお父さんが悪かったと話してくる」と話した。長男が「お父さん、結果はどうなるの?」と聞いた。子供に何が分かるのか…「ただインタビューするだけだよ」と答えた。個人的な話だが、本当は私が良く話すのだがカメラの前では出来ない。見ている方々がとても重たく思うのではないかと思って。私が出るだけで、こうして皆さん重くなる。「壁」とでも言うのか。放送やイベントをして韓国の後輩に会えばどうしたらいいのか分からない。

Q. ぎこちなさだろうか。
A. よく分からない。私も歓迎して「がんばれよ」と言うのも何かと思う。むしろ私を応援すると言われると笑うべきなのか分からない。ありがたくもあるが、いつまでかかるのか私自身が気楽に出来ない。自信がなくなった。

Q. 韓国での兵役身体検査の結果は。
A. 4級を受けた。腰の問題のためだ。5集のときに『昨日今日そして』というチョ・ヨンピル先輩の曲をリメイクした。ミュージックビデオを撮影し、高い場所から落ちて腰を打った。今手術しなければあとでヘルニアが悪化すると、必ず手術を受けねばならなかった。『芸能街中継』を通じて報道され、当時にもすぐに兵役忌避疑惑の記事が出た。正直にそのときには理解ができなかった。実際に腰が痛かったが生活に支障はなかった。ダンスも踊れたから。当時は少し痛くても舞台にあがって一生懸命にやった。笑い話で飯だけくれれば熱心にやった。だから手術もしないでいようと思ったが、父が私を説得した。「これは芸能活動の問題ではない。健康が重要」だと。だから手術を受けた。

Q. 公益6ヶ月判定に退勤後の芸能活動を保証する優遇提案疑惑もあった。
A. 事実ではない。6ヶ月勤務ではなく26ヶ月だった。優遇提案、そんなものはまったくなかった。その後も何度も疑惑がでるのでむしろもっと軍隊に行くというインタビューをたくさん行った。それさえも私がまず先に投げかけた話ではなく、関連の質問が出れば答えただけだ。

Q. 入隊を前に日本公演に向かった。2002年1月、本来予定されていた公演だったのか。アメリカの市民権取得のための日程だったのではないのか。
A. 絶対に違う。私が馬鹿ではない以上、なぜ嘘をつくだろうか。軍隊に行くと言ったことは本当に行くと言ったから、行かねばならないからお話したことだ。市民権申請に基づく宣誓インタビューが2001年10月頃に一度呼ばれた。父が申請していたものが出たものだ。そのとき連絡がきたとき、私は最後まで行かなかった。国民と約束した状態だったからだ。けれど9.11テロ以降、市民権を一度リジェクト(拒絶)すると再び出る可能性がないように変わったという。2002年1月にちょうど絶妙にそのときに市民権インタビューの日程が再び届いた。

Q. 当初は日本にだけ行って、戻ってくることにしたのではないのか。
A. 出国をするときに、日本公演を終えた後にアメリカにも行って来ると話した。父が「まずは来なさい。来て話そう」と言った。「軍隊に行く前に、顔だけでも見ていきなさい」と。今後は会うことも大変で、こんな状況になるとは分からずに挨拶をしに行ったものだった。

Q. 出国するときに兵務庁の職員が保証人になった。
A. その事実は知らなかった。出国した後で知った。個人的に知っている方(兵務庁職員)ではない。おそらく会社で知っている方だろう。出国するときに誰を保証人にするのか、そんなことも知らなかった。その後どうなったのかも知らない。

Q. 意図的な(兵役忌避)状況と考えられる。
A. まったく違う。軍隊に行こうとしたが、アメリカで父親に説得された。一番大きな問題は家族だった。二十歳のときに私が家族の責任を取った。またアルバムを出さねばならない(契約状態)位置にあった。6集、7集、アルバム2枚に対する契約を履行せねばならない状況でもあった。仕事をせねばならなかった。会社の職員もとても多く、私以外には所属芸能人がいなかった。私が仕事をしなければ、会社をたたまなければならない状況だった。父からは「お前がそうしてはいけないのではないか。軍隊に行くことがもっと利己的な場合もある」という言葉が大きかった。両親のせいとは言えない。成人である私が下した決定だ。ただ、私を抑える人がいなかった。若くともサイン一枚に数十億の取引が行きかった。グループではないソロであったため、私がこうすると言ったら止める人がいなかった。とても傲慢だった。

Q. 振り返ってみるとどうか。
A. 本当にがむしゃらだった。不足していた。そんなことに耐えるほどの成熟さがなかった。そのときには満25歳だった。

Q. アメリカにて市民権取得後、韓国行きの飛行機でどんな考えをしたか。
A. ただまた仕事をしに行くんだな、と思った。市民権取得後に私は軍問題の保証人になった公務員の方がいるというので早く行って釈明し、被害がないようにしなければと考えた。だから記者会見も準備していた。けれどどう状況が変わったのか分からなかった。その時にはインターネットが発達しておらず、深く知ることが出来なかった。

Q. 空港に到着した後の状況は。
A. 最初に飛行機から降りるので記者たちがゲートの前に来たという。出入国管理所通過後でない、飛行機のドアから降りてすぐだった。警護員のような方が私を捕まえた。話方も固かった。気にするなと。カメラが回っていないときにはタメ口にもなった。どうにかして出入国管理所を通過するところまで行ったらパスポートを見せろと言われた。見せると英語で話しかけてきた。入国禁止になったから帰れと。困惑した。違う国に来たようだった。けれどその話が終わってそこにいる方々が全員サインを受け取っていった(笑)。とても見慣れない光景だった。記者の方はまた写真を撮って、別の日程があると行ってしまった。とても傷ついた。

Q. サインをしてやりながらどんな考えをしたか。
A. 別に、一生懸命サインを書いた。どれだけ正気になれなかったのか、入国禁止になった後で現在の妻に電話して喜んだ。またアメリカに行くと。少し休むことができると。

Q. いつ深刻さに気づいたのか。
A. しばらく分からなかった。放送活動が不発になっても(「それでも私がユ・スンジュンだ…という」進行者の言葉)ただそのときはそれを(釈明せず)私が守ればいいと思った。馬鹿みたいに。状況が少しずつ考えていたことと遠ざかっていった。

Q. 韓国で「裏切り者スティーブ・ユ」という非難に接したときの気分は。
A. 全部見なかった。見てはいけないと考えた。そうしてこそ生きている気がした。誰かがコメディプログラムで私を素材にしていたそうだ。けれど視聴者が笑ったそうだ。「アメリカに逃げた女々しい奴」といった脈絡だったが、それを家族と一緒に見ていた。その時にテレビを消した。その次から韓国を見ないようにした。そうしてこそ生きることが出来た。韓国の方々に会ったときには平気なふり、自然なふりをした。

Q. もっとはやく軍隊に行く努力をしなかったのか。
A. 状況判断がうまくできなかった。私が被害者だと思っていた。あぁ、本当に(彼は自らが情けないというように笑った)。周囲から早く気持ちを変えろと言ってくれる人はたった一人だけだった。私の妻だ。「韓国の土地を踏みたければ軍隊に行きなさい」と言った。けれどまた私がすでにプライドが傷ついていた。ただこの問題から逃げたかった。今考えればその点が一番愚かだった。

Q. 兵務庁の関係者に言いたい言葉があれば。
A. 善処してくださり、私が韓国の地を踏むことができるように道を開いてくだされば嬉しい。再び機会をくださるならば、どんな方法であろうとやりたい。私が若かったときに下した決定や間違いはすべて謝罪する。

Q. 国民には。
A. とても時間が経ってから謝罪することが申し訳ない。すぐに謝罪せねばならなかったのに勇気がなく、簡単に出てくることができなかった。遅れてこうして謝罪することになり申し訳ない。どんな方法を通じてでも再び韓国に帰りたい。またそれ以前にユ・スンジュンという名前を回復した。物議を起こして申し訳ない。多くの不安や失望を抱かせた点を心から謝罪する。

Q. これで終わった。気分はどうか。
A. まだもどかしい。国民を愚弄したり嘘を計画したりはしなかった。本当に(軍隊に)行こうとしたが、個人的な理由で間違ったということがやはり今になって言い訳以外にならないことは分かっている。しかし、皆さんを騙そうとしたというのは本当に違う。どうであれ、約束を守ることが出来ず早く謝罪できなかった点は言葉もない。
  • スタートゥデイ チョ・ウヨン記者
  • 入力 2015-05-20 01:07:43




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