A. | (※この記事は「韓国歴代の大事故・惨事(上):三豊百貨店崩壊、聖水大橋崩壊、大邱地下鉄のガス爆発と事故」の続きです。) ▶ 大然閣(テヨンガク)火災事件 火災は午前9時50分頃、1階のコーヒーショップでプロパンガスが爆発し発生しましたが、可燃性の物質で満たされた建物の内壁に移り、1時間が少し過ぎる間に建物21階全体が炎に包まれました。当時、ホテルの周辺には、5階建て前後の低い建物が隣接していたため、下のほうの階にいた人たちは、危険を感じ取って隣の建物の屋上に飛び降りたり、カーテンやシーツのよううなものを裂いて紐を作り、それをつたって降りてきたりもしました。8階からシーツをかぶって飛び降り、幸いなことに足首の負傷だけで奇跡的に生き残った女性もいましたが、飛び降りた人の中では生きている人よりも亡くなった人の数が多くいました。 ▶ 慶州リゾート崩壊事故 犠牲者のうち08年度入学生のヤン・ソンホさんはミャンマー語科の生徒会長として建物が崩れたため、後輩を率いて避難させた後、まだ脱出していない学生を救うために建物の残骸に入り、2次崩壊によって被害に遭いました。 ▶ 西海フェリー沈没事件 緯度が釣りスポットとして噂が出て、訪ねてきた観光客を満杯に乗せ、激しい風浪がおきている海に無理に出た船は、最終的には悲運を迎えました。定員よりも141人を多く乗せただけでなく、数トンにもなるイワシの塩辛まで乗せた状態でしたが、釣り旅行をしていた都市の人たちが次の日の仕事のために出発を強要し被害に遭いました。 西海フェリーは事故にあう当時、休暇中だった船長に代わって甲板長が航海士の仕事を代わりにし、安全要員も2人しかいないうえに、救助要請も正常に行われませんでした。 ▶ 南栄号(ナムヨンホ)沈没事故 定員290人の南栄号は、西帰浦港を出発する当時、中間デッキの上にもみかん箱を積むほどの過積載で、出港する当時、船体が15度傾いている状態でしたが、中間の寄着地である城山港で乗客121人と貨物をさらに乗せ、乗客311人と乗組員20人など計331人という定員を大幅に超過した状態でした。 その後、南栄号は城山港を出てから5時間25分経過した15日午前1時20分頃、全羅南道麗水から28マイル離れた海上に達したときに、突然襲った激しい風でデッキの上に積み上げたみかん箱が左舷方向に崩れながら、中心を失った船体が左舷に倒れ、沈没し始めました。 ▶ 毛山駅(モサンヨク)踏切惨事 事故のバスは修学旅行中のソウル京西中学校3年生の生徒を乗せ顕忠祠(ヒョンチュンサ)を訪問した後、帰る途中でした。学生76人を乗せたバスが踏切を渡る途中、走ってきた特急列車に側面をはねられ80mほど押される過程で、燃料タンクに火災が発生し、被害が大きくなりました。バスに乗っていた人の中で怪我をしなかったのは、たったの2人だけでした。 ▶ 千戸大橋(チョノテギョ)バス墜落事故 乗客50人を乗せていたバスは、橋を渡ってる時に突然、欄干に突っ込み川に落ち、乗客のうち19人が死亡し35人が負傷する惨事が発生することになりました。 ▶ 南原駅(ナムウォンヨク)列車追突事故 1971年10月13日、全羅北道南原駅で郡山に修学旅行に行く学生232名と通学中の学生、市民を乗せた列車が坂の上で出力が不足し停止した後、後進し、待機中だったタンク列車と追突し、小学生15人、高校生3人など22人が死亡し、36人が重軽傷を負う惨事が発生しました。 事故は南原駅を出発した列車が1.5km地点で坂の上で機関車の出力不足で停止した後、後進し、待機していたタンク列車と逆追突し、客車が脱線して発生しました。 (※この記事は「韓国歴代の大事故・惨事(下):群山火災惨事、仁川仁峴洞火災事件、臥牛アパート崩壊事件など」へ続きます。) |