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コラム > オピニオン > 【韓国コラム】夫婦有別なのか、夫婦有愛なのか?
大学時代、教養科目の講義をしていた哲学教授のことを思い出す。
中間テストを受けたばかりの友達が頭を抱えていた。
三綱五倫の問題で「夫婦有〇」の「別」がなかなか思い浮かばず愛と書いて出てきたそうだ。
試験場を出るやいなや「別」の字が思い浮かんだが、すでに手遅れだった。
また入って答えを書き直すこともできなかった。
ただぼんやり立って、子供たちも知っている問題の答えを間違って書いた自分自身を嘆くのが精一杯だった。
ところが試験の成績をもらって嬉々としていた。
100点満点だったからだ。
一問「婦夫有別」の代わりに「夫婦有愛」と書いた問題は間違ってたはずなのに100点だなんて、彼自信が納得できなかった。
彼は講義時間に教授に問い詰めるように聞いた。
採点が間違っているのではないかと、「夫婦有愛」は間違った答えではないかと声を高めた。
教授の答えは簡単だった。
「夫婦有別でも夫婦有愛でも同じようなものだ」
愛がなければ違いを理解できず、お互いに違いを理解するところで愛が咲くという説明だった。
愛、慈悲、仁。
イエスと釈迦、そして孔子の教えだ。イスラムの教えも違わない。
性別や年齢、肌の色、貧富貴賤、価値観が違うとしても包容すべきだという教えだ。私と違う人を愛し彼らのために犠牲になれと教えた。
世界の多くの人々が彼らの教えに従う。「仁、愛、慈」という教えに忠実な人生を送れば本当に生きるだけの社会ができるだろう。
しかし、ほとんどの宗教で「愛」と「別」は全く別個の単語だ。
異なるという意味にとどまらず、追い出し一掃し、燃やしてなくすべき対象になる。
19日の釈迦誕生日、韓国仏教の本山と言われるソウル鍾路(チョンノ)にある曹溪寺(チョゲサ)の前に立て札を持ったキリスト教信者10人余りが集まりデモを行った。他人のお祭りに行って汚水を浴びせるようなものだった。彼らは見ていられなくなった仏教信者たちともみ合い、通報を受けた警察が来て解散した。
なぜ他の宗教を否定するのだろうか。
牧師たちは「愛イコール別」という等式を教えないからだろうか。
それとも、この一命を捨てても地獄の火に落ちる衆生を救いたいという強烈な信念のためだろうか。