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もっと! コリア (Motto! KOREA)
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  • Q.
    早死にした韓国の芸能人①…20歳前に生涯を終えた人
  • A.
    無味乾燥な人生。オジン(チョン・ミソン、全米善)は、テレホンクラブのアルバイトをして知り合いになった男と通話をしながら、うんざりした日常を過ごしたり身に染みついた孤独さをなだめたりします。電話で自分の日常を事細かく話して慰められるのがオジンには人生の清凉剤でした。

    チョン・ミソンは初めて主役を演じた映画『恋愛(2005年上映)』で物足りなさを満足させたがる 30代の愛を演技します。

    • 映画『恋愛』のスチールカット



    この映画でチョン・ミソンは撮影監督をしていた夫に出会うことになります。しかし、夫は清凉剤ではありませんでした。結婚生活の6年間、夫を8日間しか見ることができなかった(2012年インタビュー)ので彼女の胸の奥に刻まれた傷を育てたのかもしれません。

    「私という人がどのように暮らしてきたのか、そして今後生きるべき理由は何なのかを一度書いてみたかったのです。書くことがたくさんあると思いましたが、私の名前の後に書くことは何もありませんでした」

    チョン・ミソンは48歳で生涯を終えました。70歳が青春と言える時代なので、とても短い人生です。夭折に近いです。

    チョン・ミソンのように早死にした韓国の芸能人は少なくありません。青春の春が始まる前、20歳の誕生日を迎える前に他界した芸能人もいます。

    1990年代、韓国にバラードの旋風を巻き起こした在米同胞の歌手、ソ・ジウォン(徐知原、本名パク・ビョンチョル、朴秉哲)の人生は、本当に気の毒です。

    ソ・ジウォンはバークレー大学の心理学科に進学する予定でしたが、アメリカの市民権まであきらめて歌手になるために韓国に帰ってきました。アメリカのLAで韓国人放送局とレコード会社の主催で開かれた新人歌手発掘オーディションで1000対1の競争率で勝ち抜き合格したのがきっかけでした。

    183センチメートルのすらりとした背丈にかわいらしい美少年、特有の美声でとろけるように歌うバラードは、一気に少女ファンたちを魅了しました。幼い頃からKBS合唱団、Angels合唱団で歌を歌ったソ・ジウォンは生まれつき歌手のようでした。デビューアルバムに載った『また別の始まり』は1995年歌謡トップテンの10位圏中に入りました。

    『私の涙集めて*』をタイトル曲にした2thアルバムの発売を控えた1996年元旦、ソ・ジウォンは冷たい死体で発見されました。友達と忘年会をした後、宿舎に帰ってきてラーメンを作って部屋に入った姿を見た友達がその日の夕方8時に遺書と共に痙攣を起こしている彼を発見しました。解剖検査の結果、胃から300粒ほどの神経安定剤が発見されましたが、飲み込んだ薬の一部が気道へ渡って呼吸困難を起こしたのが決定的な死因でした。

    * チョン・ジェヒョンが別の歌手のために初めて作曲した歌。人気歌謡ベスト50で1位をした時、家族が代わりに賞を受け取り、歌謡トップテンで1位になった時は、チョン・ジェヒョンが所属していたベイシスが代わりに公演しました。

    「この世は、僕が存在するのにあまりにも険しいところで、もうこれ以上は耐えるのが難しいようです。2thアルバムの活動を控えた僕はこれ以上自信もないです。それに、活動中に軍隊も行かなければなりません。僕の家族と事務所の職員の責任を負うなんて、無理です。新年を迎えて僕がこの世に存在しない方がいいと思います。(中略)何が僕をこんなにみすぼらしくさせるのか…何よりも自分自身との戦いで勝てなかったようです。芸能人として、また、一人の人間として、僕はこれ以上力がありません。どうせなら、アメリカで平凡に勉強を続けていればよかったのかもしれません」

    満19歳の青年が世の中に残した最後の言葉です。
    実際に、ソ・ジウォンは彼が所属していた企画会社で唯一成功した芸能人でした。企画会社の職員をソ・ジウォンが一人で食べさせてたということです。それでも幼い弟に運動靴一足も買ってあげられなくて心を痛めた程、企画会社の待遇は不当でした。

    所属会社は遺作になった2thアルバムを含んで生前に出せなかった未発表曲、ライブの舞台音楽、後輩歌手が追慕して歌った歌などを適当に混ぜてアルバムを3つも発売しました。そのため、金のせいで頭がおかしくなったという非難を受けました。まだ彼を記憶するファンたちは企画会社の社長が殺したも同然だと感じています。

    アマチュア演劇俳優として活動した性少数者活動家、ユク・ウダン(六友堂、本名ユン・ヒョンソク尹賢碩)は、プロテスタント界による「ソドムとゴモラ」という人身攻撃に耐えることができなくて18歳という花のように美しい歳で自ら命を絶ちました。

    • ユク・ウダン10周期記念文化祭(2013.4.27)



    篤いカトリック教信者だった彼は、6枚の遺書と34万ウォンの現金、そして黙珠を遺品に残しました。遺書に「僕が信じる神様は僕を受け入れてくれるだろう」と書きました。彼の友達は酒とタバコ、睡眠薬、ファンデーション、緑茶、黙珠だけです。中学生の頃、性的アイデンティティを自覚した彼は高校時代、いじめに耐えられなくて自主退学しました。

    元祖、韓流1世代アイドル、最高の美男子アイドルと呼ばれたNRGのサブボーカル、キム・ファンソン(金煥城)も20歳を迎える前に生涯を終えました。

    • キム・ファンソン



    鉢巻きが、一番よく似合う男性アイドル1位になって年上の女性ファンの心を揺さぶったキム・ファンソン、死因はウイルス性の急性呼吸器疾患です。
    キム・ファンソンが「喉が痛い」と話した時は、そんなことになるだろうとは誰も知らなかったでしょう。同じメンバーのノ・ユミン(魯維民)が病院に連れていく時、NRGのリーダー、イ・ソンジン(李成真)は、「なんで男が風邪で入院までするのか?」 とからかったそうです。入院治療を受けて三日後に体調が好転してファンたちに音声メッセージを残しましたが、その後、急に症状が悪化して人工呼吸器で延命して、ついに息を引き取ってしまいました。風邪にかかったかもしれないと言ってから、10日も経っていませんでした。

    死亡前に意識があった当時、キム・ファンソンは医者たちが自分の病気について話すのを聞いて、姉に「お姉さん、俺は死ぬのか?」と絶望したそうです。

    • ユーチューバーの「遊ぼう、キュリ」



    たとえ短い人生でしたが、勇敢に病魔と闘った子もいます。2008年4月に生まれたキュリ(本名キム・ハンソル)は白血病で病院に入院している間、マインクラフト、ゾンビ高校など様々なゲームをレビューしたキッズクリエーターチャネルで世間と疎通しました。

    ゾンビ高校のゲーム利用者から詐称アカウントという論議が提起されて悪性コメントで苦しんだこともありましたが、白血病と戦う幼い少女だったという事実を知ればコメントを残した人も、かなり後悔したでしょう。満10歳を迎える前に目を閉じた後、多くの人々がキュリ追慕映像を載せてキュリの魂を慰めました。