A. | 趙治勲(チョ・チフン)。爆破の専門家という別名を持つ彼を、韓国囲碁界の伝説と呼ぶべきか、日本囲碁界の伝説と呼ぶべきか悩むところです。
趙治勲のもとの名前はチョ・プンヨンだったそうです。弟もいました。ところが、家の前を通り過ぎた僧侶が「改名をしなければ母親が死んでしまう。改名をすれば子どもの頃に水を渡って名前を大きく知らせることになるが、代わりに弟が死ぬ」という予言を残したそうです。 名前を趙治勲に変えた後、僧侶の予言どおり弟が乳児の頃に死亡したのですが、後に趙治勲が有名になった後、僧侶を見つけるために新聞に広告まで出しましたが、再び会うことはできませんでした。 国籍が韓国人なだけに、当然、成人すれば軍隊に行かなくてはいけないのですが、幸いにも兵役が免除されました。玄界灘を渡ってから19年後の1980年、当時の日本囲碁界では最高の権威だった名人の称号を獲得して、韓国では囲碁棋士としては初めて銀冠文化勲章を授与されました。囲碁ファンが国威宣揚のための兵役免除を要求し、これを政府が受け入れたという話がありますが、本人の説明では小学校すら卒業しなかったからだそうです。 韓国の兵役法上、小学校を出ていない人は兵役が免除されます。とにかく、名人のタイトルを獲得した後に兵役免除が確定したことは事実です。 兵役に関連したエピソードを残した棋士としては、韓国の国宝とされた李昌鎬(イ・チャンホ)を欠かせません。キム・ヨナがフィギュアスケートで世界の舞台を席巻する前、韓国が誇る国宝は囲碁の李昌鎬でした。 李昌鎬の別名は神算です。世界の囲碁で名を馳せた棋士には数多くの別名がつくものですが、神という呼称は李昌鎬が唯一です。全盛期時代には序盤50手が打たれた後「一目半」であれば、相手が躍起になって妙手を絞っても、一目だけでゲームが終わった程だそうです。 13歳のときに最初のタイトルを獲得して、15歳で多冠王となり、師匠の曺薫鉉(チョ・フンヒョン)を超えましたが、寡黙な性格と同じくらい厚い碁を打つせいで、碁盤では才気を見ることが難しかったといいます。だから師匠さえも「こいつは本当に天才なのか」と疑うそうです。 「当然、打って出るべき手順であるのに、昌鎬は下手のように後退する。あきれて叱ると、ぼそぼそと言う。『こうすれば争うことになり、そうなると一瞬で逆転されることもある』と。しかし、退けば2~3目しか勝てないが、決して負けることはないと言う。昌鎬は半目負けている状況で、目に見えない0.7目を知って手順を踏んで目を作り上げる。(曺薫鉉のインタビューから) 1994年、韓国囲碁の絶対者であった曺薫鉉を押し出して13冠を占めて独走し始めましたが、李昌鎬に続けざまに敗れた中国では彼を神やエイリアン、ターミネーターだと描写したりもしました。新聞では17歳の少年を「朝鮮と中原天下を恨(ハン)を抱いてさまよっていた悲運の武芸者、武林黒道の奇妙な殺手を使う達人、刀一本を担いで飄々とさまよった彼の精神」という不気味な描写も残したほどです。
訓練所で訓練をするために点呼をすると、必ず1人が欠けていたそうです。教官が内務室に李昌鎬を探しに行くと、軍靴のひもを結べずに、途方に暮れていたそうです。 「イ・チャンホ訓令兵、まだ軍靴のひもが結べないのか」 「私は今までスニーカーだけを履いてきたもので…」 だからと言って105人の国会議員を背後に置く李昌鎬に罰を与えることもできず、結局、教官は夜を明かして李昌鎬の軍靴にボタンを付けたと言います。世界で一つだけの軍靴が作られたわけです。 実際に李昌鎬は師匠の家に一緒に住んでいたときにも、ひとりでは何もすることができず、10歳の頃にも師匠の夫人が髪を洗ってあげ、ひものない靴を履き、あるいは師匠がスニーカーのひもを結んであげることが日常茶飯事だったそうです。囲碁がなければ、李昌鎬はどう生きたでしょうか。偉大な数学者になったかもしれませんね。 (次回、李昌鎬の師匠である曺薫鉉と彼の生涯のライバルである徐奉洙の話が続いています。) |