A. | 1922年、MBCの労働組合がストライキに突入しました。苦労して作った番組が放送されなかったことに抗議した労働組合の幹部たちが、はっきりとした理由もなく会社からクビになったことがストライキの直接的な原因になりました。 労働組合の組合員たちは胸に「公正放送」というリボンをつけました。幹部たちはリボンを奪いました。週末デスクのアンカーだったソン・ソクヒ(ソン・ソッキ)は葛藤しましたがリボンをジャケットではなく、表からは見えないワイシャツのほうにつけました。しかし、彼は自らを許すことができませんでした。後日、彼は「記憶していることのうちで、もっとも恥ずかしい機会主義的な行動だった」と回想しています。 自責の念にさいなまれた彼は、次の出演から堂々とリボンをつけて登場しました。52日間続いたストライキは、戦闘警察の突入で終わりました。ソン・ソクヒも労働組合の幹部と一緒に主導者として拘束され、永登浦の拘置所に収監されました。実は、彼は労働組合の中心幹部ではありませんでした。ストライキに同参した組合員のうちの一人で、ときどき代弁人の役割を果たした程度でした。組合員の中で、もっとも大衆的な人物であったことから、目をつけられただけでした。 ソン・ソクヒは職業軍人である父親のもとに、2男1女の2番目として生まれました。上には1歳年上の姉が、下には2歳年下の弟がいます。韓国戦争で「武功勲章」を2つも受けた父親は、彼が6歳のときに軍から出てきて揚水機のビジネスを始めましたが、洪水により購入しておいた製品が流れてしまい、家計が苦しくなりました。その後、高校を卒業するときまで、生活に余裕はなかったようです。 中学生あたりから、6つほどのバス停の区間を歩いて通学しながら交通費を節約してお金を集め、高校2年生の時に蓄音機とレコードを2枚買ったのですが、この蓄音機は結婚するときまで15年間、彼が音楽に接する通路になりました。高校に入って、先輩たちの目に留まり、放送班に入ったのが彼がアナウンサーになった決定的なきっかけになりました。 大学に通うときには、上下をいつも黒い服を制服のように着て過ごし、ニックネームが制服だったそうです。大学卒業後には少しの間、朝鮮日報の販売局で仕事をしたこともありましたが、すぐにやめてMBCのアナウンサーになりました。その後、JTBCに移るまで、彼はMBCの看板アナウンサーでした。その後、週末のニュースデスクのアンカーを務めていたときに、ストライキに同参することになりました。 MBCのストライキは政界の仲裁で円満に解決し、閉じ込められていた組合員もほとんどが復帰しました。もちろん、会社は警戒の視線を収めませんでした。だからなのか、40歳を超えたときにソン・ソクヒは国際民間団体から奨学金を受け取って、家族を連れてアメリカに留学をします。ミネソタ大の大学院でジャーナリズムの修士学位を受け取りますが、この縁により後で大学で教鞭を執ったりもしました。
『視線集中』と一緒に、『100分討論』はMBC時代のソン・ソクヒの童顔を大衆に知らしめる通路でした。『100分討論』を進行していた当時、木曜日には討論が終わった後に放送局の宿直室で少しだけ寝た後、早朝に起きて『視線集中』の生放送を進行したといいます。 時事問題を扱う番組を進行する有名アナウンサーであることから、政界からのラブコールも多く受けました。2011年、無償給食問題でオ・セフンソウル市長が退き、補欠選挙が行われていたとき、『視線集中』に出演したホン・ジュンピョ当時ハンナラ党代表がソン・ソクヒに「政治を行う意向はないのか、ハンナラ党が支援する」と意中を探りましたが、これについてソン・ソクヒは「みんなが出て行ってしまったら、牛は誰が育てるのか」という、当時流行っていたギャグで政治をする考えがないことをはっきりと明らかにしました。 2013年5月、13年間の『視線集中』を終了させ、JTBCに移った後、一時は疑いの目が向けられたりもしました。与党びいきの報道を日常的に行うケーブル総合編成チャンネルで、果たして中立的な態度を守ることができるのか、懐疑的な視線を送る人も多くいました。放送人のホ・ジウンは「ソン・ソクヒがサムソンを批判することができるのかが要」という評価を下したりしました。(翻訳者注:JTBCの母体である中央メディアネットワークスはサムスンの系列会社であり、JTBCと中央日報の会長であるホン・ソクヒョン氏はサムスン電子イ・ゴンヒ会長の夫人ホン・ラヒ氏の弟だ) ところが、ソン・ソクヒがアンカーを引き受けた後、JTBCは政治的にも発言すべきことは発言し、サムスンに批判的な報道も行いました。ソン・ソクヒを迎え入れたことにより、JTBCは変わったのです。
ソン・ソクヒの影響力は放送でときおり人間的な姿をみせているからかもしれません。放送を進行しながら、中立を強調しますが、ときおり人間的な面がこぼれます。2003年2月、大邱地下鉄の惨事が起きた後、事故対策本部の関係者と電話インタビューをしたときに彼が責任を回避して、被害を受けた乗客に転嫁しようとしたところ、「そのようなことをおっしゃられてはいけません」と厳しい叱咤を浴びせ、セウォル号で失踪者の父親とインタビューをしていたときには、約5秒間、喉を詰まらせたりしました。 このような人間的な面は、彼を左翼傾向のジャーナリストとして分類する原因になったりもします。保守傾向の弁護士チョン・ウォンチェクは「ヒューマニズム自体が、まさに左派の始まり」と表現したりもしました。 アンカーのソン・ソクヒ、様々な評価がありますが、とにかく童顔であることだけは確かです。 |