A. | ・DSPメディアについて教えてください①:デソン企画とイ・ホヨン代表 ・DSPメディアについて教えてください②:1990年代から2000年代前半 2000年代の後半はDSPとしては最後の全盛期でした。2003年に登場したSMエンターテイメントの東方神起が10代のファンを独占すると、立ち向かうアイドルグループとして出てきたのがSS501です。2005年6月にデビューしたSS501のグループ名はSuper Starの5人は永遠に(0)ひとつ(1)という意味です。 SECHSKIESの時と同様にSM + 1戦略であれば、SS501のメンバーは6人である必要がありますが、もともとの7人から5人に縮小された形でデビューしました。1990年代後半を経てSMエンターテイメントと歌謡界の二大山脈を築けたという自信を垣間見ることができる部分です。 SS501のファン層のトリプルSは東方神起のカシオペア、SUPER JUNIORのエルフと一緒に韓国のアイドル3大ファン層*となりました。SS501と後に続いて2007年3月にデビューしたKARAはこの時期のDSPメディアの希望でした。 * 3つのファン層の最初の文字を取って「カトエル」という造語ができた。 経営的な側面ではDSPメディアは2006年3月に繊維生地メーカのホシン繊維を買収することでコスダックに迂回上場しました。そしてドラマ市場に進出してDSPメディアが制作した『マイガール』(2005.SBS)、『外科医ポン・ダルヒ』(2007年、SBS)は高い視聴率を記録しました。PDとドラマ作家も迎え入れました。 しかし、規模拡大のために数百億ウォンをかけたドラマ『淵蓋蘇文』(SBS.2006~2007)の失敗によりコスダック市場進出から3年にして退出させられる痛みを経ました。イ・ホヨン代表がドラマから手を離してアイドルに目を向けながらSS501とKARAがヒットを連続させ、状況が回復しました。 しかし、2010年3月、イ・ホヨン社長が脳出血で倒れながら状況は下り坂へと向かい始めました。 芸能界の門外漢であるキム・ホヨンの奥さんチェ・ミギョンが代表に就任して、一部の幹部が会社を去り無能な経営陣を信じなかったKARAのメンバーたちが専属契約解約を通知する事態へとつながりました。 人材管理を台無しにして7人組ガールズグループRAINBOWは地上波で1位を一度も経験することができず、韓日両国で同時出撃する予定だった5人組ガールズグループのPurettyはデビューもできずに解散する悲運を味わいました。 経営が悪化し、2013年までにそれなりの黒字基調を維持していた会社が2014年には純利益が3億ウォンと、前年に比べて10分の1の水準に減り、2015年には22億ウォンの赤字に転じました。 DSPメディアの顔であったKARAとRAINBOWさえ離れてDSPの経営陣が無能であることが明確になってしまいました。 この時代、タンジ日報はこのようなコメントでファンたちの立場を代弁しました。 「ファンはDSPにSM級の企画力を望まない。ファンはDSPにJYP級のメディアプレイ(印象操作)を望まない。ファンはDSPにYG並の音楽性を望まなかった。 CUBE並のイメージメイキングも望まない。ファンは何もしなくてもAprilいいがアルバムだけでも…せめてケアだけでもしっかりくれることを望んだ」 RAINBOWまで手放した後、DSPメディアに変化が起き始めました。AprilがSBS MTV『THE SHOW』で2位になるまで頑張っており、混成グループKARDも二番目のシングル『Do not Recall』発売直後に防弾少年団を抜いてアメリカを除いた多くの国でK-POPチャート1位になる気炎を吐きました。
2018年3月にカムバックしたAprilがMAMAMOO、TWICE、Apink、LOVELYZ、さらにI.O.I出身のメンバーが属しているグループとの競争でどれほど力を発揮できるのか、Aprilのカムバックが成功するならDSPメディアも暗雲から逃れることができることでしょう。 |