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真露グループを「財界19位」に育てた悲運の王子、再起願ったが…

10年の海外逃避中に事業を起こすも相次いで失敗、遺族は6日または7日にソウルで葬式予定 

    「悲運の王子」真露グループ張震浩(チャン・ジンホ)元会長は3日、中国北京で心臓発作で死亡した。享年63歳だった。

    5日、駐中韓国大使館と張元会長の側近によると、張元会長は3日午前、中国・北京市朝陽区にある自宅で心臓麻痺により倒れ、病院に急いで運ばれたが、最終的に息を引き取った。病院側は「張元会長はすでに病院に到着する前に死亡した状態だった」と明らかにした。

    故張元会長の知人は「普段から張元会長は酒をたくさん飲み、高脂血症の持病を患っていた」と伝えた。海外逃避期間中に起こした事業に相次いで失敗して、最近、大きく落胆した状態だったが、自ら命を絶った情況は発見されなかった。

    死亡のニュースが伝えられた後、張元会長の娘ユンジョン氏と甥など、韓国に居住する家族らは4日、航空機便で北京に急いで渡って葬儀の手続きを議論した。遺族らは5日、北京の近くで火葬し、6日または7日、韓国内で別途の葬儀を行うことにした。ユンジョン氏は1977年生まれで、現在ソウルで塾の事業をしていると知られている。息子のヒョンジュン氏は、特に知られている肩書きがなく、門外不出中であるため、父の葬儀に参列するかどうかは不透明なものと伝えられた。

    張元会長は1952年に真露グループ創業者の張学燁(チャン・ハクヨプ)会長 の長男として生まれ、ソウル高と高麗(コリョ)大学を経て1979年に真露グループに入社した。

    先代の張学燁元会長が1985年に死去し、34歳の若い年で経営権を受け継いだ後、1988年に真露グループの2代目会長に就任した。就任後の張元会長は、当時の主力事業分野だった焼酎の生産・販売に安住せず、多方面へ企業規模を拡大し始めた。1992年にはカスビールを生産する真露クアーズビールを作り、ビール市場に進出した。焼酎とビールで韓国内の酒類市場を導いて、流通やデパート、建設など様々な分野へ事業を拡張した真露は、1990年代、20社以上の系列会社で3兆5000億ウォン台の売上高を上げ、一時、財界序列19位まで急浮上した。しかし、1997年の通貨危機により、急激に没落の道を歩み始めた。無理な規模拡大の過程で雪だるまのように膨らんだ借金が決定的な経営悪化の要因だった。

    真露、真露総合食品などの主要系列会社は相次いで法定管理に入り、最終的に真露グループは2003年に空中分解してしまった。子会社の真露クアーズビールは1999年にライバル企業のOBビールに売却され、ウイスキー事業部門の真露バレンタインスは2000年に仏酒類メーカーのペルノ・リカールに売却された。

    張元会長は2003年に代表取締役から解任され、粉飾決算と秘密資金の横領件などで拘束起訴され、2004年10月の控訴審で懲役2年6ヶ月、執行猶予5年を宣告された。当時、検察は彼が1994~1997年、資本が完全に蚕食された真露建設などの4つの系列会社に、取締役会の承認なしに6300億ウォンを不当支援し、粉飾決算を使用して金融機関から5500億ウォンを詐欺融資した疑いなどを適用した。

    彼の悲運はここで終わらなかった。すべてを失った張元会長は真露を取り戻そうとする意志が強かったが、失敗に終わった。

    以来、彼は故国を離れ、海外をさすらう放浪者の身分となった。2005年にカンボジアに定着した彼は現地で、韓人銀行、不動産開発会社、スモールカジノなどを運営して再起を狙ったが、脱税容疑の摘発などで、これさえも順調ではなかった。2010年ごろに中国に渡り、再びゲーム会社などに投資したが、それさえもあまり成果を収めなかった。彼は、過去にメディアのインタビューで「いつか故国に戻り、再び活動したい」という望みを明らかにしたが、最後まで夢を実現できずに異国で波乱万丈の生涯を終えた。
  • 毎日経済_北京=パク・マンウォン特派員 / ソウル=チョン・スンファン記者 / イ・セボム記者 | (C) mk.co.kr | 入力 2015-04-05 18:02:27