A. | 最近、韓国囲碁界の最大の話題は、リーグ戦を繰り広げている韓国囲碁界の伝説たちの対局です。リーグ戦には先に紹介した曺薫鉉、趙治勲、徐奉洙、李昌鎬のほか、劉昌赫が参加しています。 劉昌赫はハンサムな容貌で世界最強の攻撃手という評価を聞くほど華やかした。ファンは彼にイルジメ(一枝梅)というニックネームをつけました。イルジメは貪官汚吏の富を奪って民に分けた義賊ですが、彼が去った後には梅の枝が残されていたことからついた名前です。 劉昌赫が相手を攻撃しながら急所に置く石が、イルジメが置いていく梅のように、相手の息を詰まらという意味でもあります。
実際、韓国囲碁の伝説として欠かせない人がもう一人います。韓国囲碁の先駆者として知られている趙南哲です。彼は韓国初のプロ棋士です。囲碁だけ打って食べて暮らす最初の人物という意味です。 日本の木谷實の門下で、7年間修学した後に、韓国に帰ってきて韓国の囲碁を導いたのですが、60年代まではそれこそ囲碁の代名詞でした。一般の人が囲碁を打っている最中、死活のかかった場面で簡単には石を打てずに長考にふけっていると「おい、それは趙南哲が来てもない活かせないぞ」と言っていたほどです。 趙南哲は、日本で囲碁の勉強をするとき師匠の指導を受け、たくさん参禅をしたそうです。師匠に学んだ禅の方法は、結跏趺坐で座って頭の上に熱い生卵が一個あることを想像することです。 卵が割れて頭のてっぺんから体に流れることを想像し、その流れに沿って、精神を集中させるのが禅のコツでした。 趙南哲は休みたいときに、ふらりと家から出て寺を訪ねたりしたのですが、あるとき、寺で僧侶が気を教えてくれるいうのでついていったそうです。僧侶が気が感じられると「勉強をしたことがあるのか?」と尋ねたので、日本留学時代の禅の話を聞かせてやると、勉強が間違っていたと、しっかりと勉強をさせてやるというのでついていったそうです。 僧侶は「49日間、道を磨いてこそ、新しい体が作られる」と彼を部屋に押し込んだそうです。最初の数日間は、ご飯をきちんと入れてくれたのですが、3日目に入ってからは水しかくれなかったそうです。僧侶が教える気の修練方法が絶食だったのです。絶食から3日目に趙南哲は完全に崩壊してしまいます。僧侶がいない隙に台所に行き、ゆでたサツマイモを発見してその場で夢中になって食べてしまったそうです。 趙南哲はその後、気の修練経験について「気の実体は分からないが、三日飢えれば他人の家の塀を超えない人はいないということわざが真実であることを知った」と懐古しました。
さらに、歳月が過ぎても賞金は上がりませんでした。1回から9回まで趙南哲が優勝したのですが、彼を倒せる人が韓国にはどんなに探してもいないので、プロの棋士も賞金の引上げにはあまり関心がなかったのです。「賞金が上がったからと喜ぶ人は、趙南哲だけだ」と考えていたのでしょう。 賞金の引上げは、最終的に趙南哲が解決しなくてはいけない問題でした。国手のタイトルを返却するという超強気の交渉の末に10回大会から優勝賞金が10万ウォンへと上がりました。しかし、ようやく引き上げた賞金は、日本留学を終えて帰ってきた金寅のものとなってしまいました。 趙南哲は韓国初の囲碁入門書といえる『圍棋槪論』など、多くの囲碁の本を執筆しました。 そんな彼に記者が「どうすれば上手に打てますか」と聞くと、彼の答えははっきりしていました。 「囲碁を上手に打つ方法?そんな方法があるなら、ちょっと教えてくれ」 曺薫鉉は、ある新聞とのインタビューでこのような言葉を残しました。 「囲碁は(頂上に登るには、)まず天才である必要がある。天才が血のにじむ努力をしなければならない。私の師兄である吳清源は、天才だ。子どもの頃にどれほど囲碁の本をたくさん読んだのか、左の手指が奇形しているほどで(左手に本を持って、右手で囲碁の石を打ちながら勉強したという意味)、あまりにも勉強ばかりするので頭を冷やせと師匠が野球場に送った。ところが、彼は野球場で野球を見もせずに、頭を反らせて空だけを見ていた。空を碁盤にして勉強していたのだ」 天才が、このような努力を傾けるなら、鈍才はどうやってこの世界で生き残りましょうか。天才たちの生活を見学する面白さを糧に、一生を送りましょうか。 |