A. | 朝鮮半島にサッカーが紹介された時期は19世紀末です。1882年に仁川港に上陸したイギリスの軍艦の乗組員が海岸でボール遊びをする姿を見たという記録が伝えられています。「彼らは今何をしているのだろうか」と見学だけをしたわけです。 正式にサッカーが普及したのは、1904年に官立外国語学校で体育科目の一つとして採択されてからであり、初めて公にサッカーの試合が行われたのは1906年です。そのため、その後韓国人と日本人の間でサッカーの試合があった可能性はいくらでもあります。ただし、記録にはありません。 公式記録上、最初の日韓戦は朝鮮戦争が終わった1年後の1954年に開かれました。スイスのワールドカップ予選で韓国と日本が対戦しました。東京で二回対戦しましたが、第1戦は韓国が5対1で勝ち、第2戦は2対2で引き分けになり韓国がアジア代表としてワールドカップに参加することになりました。 公式記録はここまでですが、データを探してみると興味深い事実を発見することができます。 1924年に日韓サッカーの試合が行われたという記録があるのです。当時は日本が朝鮮半島を支配していた時期なので日韓戦という名称を使用して呼んでいいのかやや疑問はありますが。 とにかく当時の朝鮮人と日本人との間のサッカー試合を伝えている1924年4月3日の毎日申報の記事を見ると、サッカーの試合が行われた理由をこう記しています。 「無敵艦隊」を自負していた日本海軍第2艦隊が仁川港に入港したのですが、第2艦隊のサッカーチームが朝鮮人たちとのサッカー対決を提案したそうです。挑戦に応じた朝鮮のサッカーチームは仁川の運動団体である全人報のサッカー部です。 1924年30日午前10時、仁川の山根町にある公設運動場で何百もの観客が見守る中、両チームの選手が対戦しましたが、第2艦隊のサッカーチームに比べ、仁川チームはあまりにもみすぼらしかったといいます。 「健康で骨太な体格の持ち主である海軍の剣幕に比べると小さくて弱く見える全人報はすぐにでも惨敗しそうだった。」毎日申報はこう現場の雰囲気を伝えています。体格だけでなく、装備も滅茶苦茶でした。ユニフォームがないため着ている服もバラバラで、サッカーシューズもないため古い軍靴を履いていました。縄で縛り付けた草履を履いた選手がいたかもしれないほどです。 しかし、いざ競技が始まると状況は予想と違っていました。人報の選手たちがリスのように素早かったのです。パスも手足がぴったりあい小型な体格の選手たちを甘く見て自惚れていた海軍は当惑しました。ボールは海軍陣営で行ったり来たりし、海軍はボールに触れることもできない状況でした。守備にあくせくとしていた海軍に向かって猛攻撃を加えていた人報は試合開始十分後に、最初のゴールを入れました。観衆の喝采で每峰一帯が騒がしくなったほどでした。 海軍の選手たちは先制点を食らいましたが、落ち着いて戦いまもなく挽回ゴールを入れることに成功します。海軍は、意気揚々となり、人報を応援していた観客は固唾を飲み込みました。その十分後に人報が再びゴールを入れ、海軍の激しい反撃が続きましたが追加得点なく前半は2対1で終了しました。 後半戦を再開した後、人報が再びゴールを入れました。反撃に出た海軍は1点を返した後、少なくとも引き分けるために奮闘しましたがゴールを入れられないまま試合は3対2で全人報のサッカーチームの勝利に終わったそうです。このゲームが記録として伝わっている最初の日韓戦(?)です。町内サッカーではあるものの新聞に報道までされているので認定してもいいのではないでしょうか。 |