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「未生」シンドロームを起こした漫画家ユン・テホ、ウェブトゥーンとドラマで大ヒット


  • 「未生」シンドロームを起こした漫画家ユン・テホ、ウェブトゥーンとドラマで大ヒット
  • < 金持ちの人生だけが成功ではない。一日一日を頑張る未生の人生が大事だと言いたかった >

「私たちはまだ、みんな未生だ」

今年1年、韓国のサラリーマンはこの一言に戦慄した。一日一日、足の甲だけを見つめて生きる人生も十分に立派だと、ドラマ『未生』は言った。大企業に非正規職として入社した高卒のチャン・グレが会社で孤軍奮闘する姿を見て、人々は「私の話だ」と言った。ドラマの中の台詞はひとつひとつが心に刻まれた。会社からの帰宅途中、とりわけ足が重い日に「碁盤の上に意味のない石はない」という台詞が思い浮かび、落ち込んで肩が垂れ下がった日には「恥ずかしいけど明日も生き残らなければならない」という台詞から慰めを得た。

ドラマ『未生』の平均視聴率は8%まで上昇した。放送からひと月にして漫画の単行本は100万部以上が売れ、累積販売部数は200万部を突破した。昨年、ドラマの原作となったウェブトゥーン『未生』のクリック数が10億回を超え、すでに一度シンドロームを起こしていた。「知る人ぞ知る話」が、今年はトルネード級の反響を呼んだ。ストーリーの吸引力は驚くばかりだ。さらに、原作を描いたユン・テホ作家(45・世宗大学漫画アニメ学科教授)は、人生で一度も会社勤めをしたことがないというから、取材と観察だけで会社生活の精髓を探った物語の腕前に感嘆が漏れる。

最近、ソウル新沙洞にある漫画エージェンシーNulookMediaで「この時代の語り手」を苦労して会った。浮かれているだろうという予想とは異なり、目は沈み表情は固まっていた。今月5日まで連載していたウェブトゥーン『巴人(パイン)』の作業と外部活動を並行するために、2日に1度寝るのだと言った。無理なスケジュールで健康が悪化し『巴人』は、一か月間休載を決定した直後だった。

「とても良いことがたくさん起きたから、少し無気力になった。人気を博してみたことがあったら、楽に享受しただろうに、学習してないから不慣れで適応が難しい」

ウェブトゥーンに続いてドラマも会社員たちに大きな慰めを与えたと挨拶すると、彼は首を振った。「私は高卒だ。大企業に通う方々より学んでいない。私は誰かを教えることができる『スペック』がない。そもそも誰かを慰める、誰かのメンターになるという考えは全くなかった。金持ちの人生だけが成功ではない。一日一日を耐えながら生きることも価値あると思ったし、ただそのように暮らす人たちの姿を見せてあげたかった」

世間は彼が作った『未生』で大騒ぎなのに、彼の関心は新安(シナン)近海の盗掘者の物語である『巴人』と来年に発表する『未生 2』に集まっていた。彼は『未生 2』について、「素材が似ていれば飽きるだろうから、他の素材を探さなければならない…」と心配した。人気に安住しない姿で、「完生はない、完生に向けて進むだけだ」という『未生』の台詞が思い浮かんだ。

デビュー作『緊急着陸』(1993)から社会を告発するような視線で編み出した『ヤフー』やスリラー『苔(イキ)』まで、素材とジャンルは違っても、すべての作品の底辺には、常に抑圧的な社会構造に置かれた「未生たち」の身もだえが込められていた。『未生』は、囲碁で完全に囲い込めていない状態、完全には生きていない状態のことをいう。

彼は「夢を見ることは自己の役割だ。私が漫画で追求するのは他の部分だ。最近、私たちはこの社会を夢見る世界だと考えない。私は夢見ているのに、なぜ世界ははこうなのか、どうして夢見ることのできる世界ではないのかを漫画を通じて言いたい」と言った。

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◆ 以下は、ユン・テホ作家との一問一答

Q. ウェブトゥーンに続いてドラマの人気が熱い。『未生』がこの時代と疎通する点はどこか。

A. IMF事態(韓国通貨危機)以後、会社員の保護網が弱まった。IMF事態は会社員一人一人の過ちではなかったが、被害は彼らがすべて被った。就職が難しくなったし、非正規職はさらに増えた。会社員が誇りを持つことが苦しい状況になった。現実がこうなのにドラマはファンタジーを描いていた。私たちの話がなかった。しかし、『未生』はつまらくて、些細な話を扱った。大それた事でストレスを受けるのではなく、ささいな事で苦しむのが、私たちの日常ではないか。些細な点が響きを与えた。読者や視聴者は、泣く準備ができていた。『未生』が彼らの頬を軽く触れたようなものだ。

Q.会社勤務の経験が無いのに、会社生活の描写が生き生きとして具体的だ。どの程度取材したのか。

A. 知人の紹介で商社マンや大企業の会社員に会って、彼らを取材した。一度会えば6時間ずつ話したりした。次長が偉いのか課長が偉いのかも知らない状態だったため、ほんのちょっとしたことまで面倒に聞いた。ノートパソコンは会社がくれるかどうか、湯沸室には何があるのか、英語が上手だということはどの程度まで上手なのか…。現場で「リスク」と「クライシス」を区別して使用するという話を聞いて、これを適用して漫画を描いたが意味が混同された。明確に知るために、その人(取材した人)の会社の前で出勤する時まで待って聞いてみた。些細な言葉一つでも、確認しながら描いた。

(彼の観察に対する執拗さは有名だ。『巴人』の時は取材のために、全羅南道の新安と釜山を行き来しており、『内部者たち』の時は主人公たちが生まれた時から毎年何が起こったのかをエクセルにまとめた)

Q. 漫画は想像力の領域ではないか。観察を重視する理由は何か。

A. 読者が漫画から自分の姿を発見できなければならない。自分がこんなにふうに暮らしているんだなと見つけることができなくてはいけない。そのためには、ディテールが生きていなければならない。私も取材を介して対象をさらに理解するようになり、その状態で漫画を描けば読者たちともっと大きな共感が形成される。いつか一度『それが知りたい』や新聞社の探査報道チームを付いて回りながら取材する過程を見守ってみたい。

Q.主人公には、作家が投影されるという。チャン・グレと似ている点があるとしたら。

A. ドラマでは、(チャン・グレ役のイム・シワンがとてもハンサムだったので) 同じ男というほかに似ている点が全くない(笑)。 実は、チャン・グレは名前は肯定的だが、考えの多いキャラクターだ。ずっと自分の人生を振り返っているところが似ている。チャン・グレが独白を多くするが、私にもそんな習慣がある。私は後悔したり、反省することがあると頭の中で整理して文章でかみしめる。普段、頭の中に残る考えを携帯電話やノートにメモしたりする。

Q. 自己省察を経て、チャン・グレは成長する。チャン・グレが大幅に昇進することもなく、正規職になるわけでもないのに、現実の矛盾にぶつかりながら、成熟していく過程が妙な達成感を与えるようだ。

A. 世の中で生きることが大変なのは悪人のせいではなく、自らの内的矛盾のためである時が多い。自分の限界、自分の考えの偏狭さのせいで大変なのだと思う。自分を振り返り、発展する人々の小さな話を描きたかった。

Q. デビューから21年間、スランプはなかったか。

A. 2001年『ロマンス』から2008年『苔(イキ)』が出るまで空白が長かった。スランプだった。無料新聞に連載して、教養漫画を一本描いたのがすべてだった。企画案を作ってあちこち出してもすべて断られ、新聞漫画を描きたかったがうまくいかなかった。ストーリーもうまく出てこなかった。一度も遊んだことはないけど、お金も稼がげなかった。妻が借金してきて生活した。得意なのがこれ(漫画)だから、これで答えが出なければ、死ななければならないという気持ちで耐えた。

Q. ウェブトゥーン輸出の糸口が見えている。グローバル市場を狙った漫画作家組合が生じて、韓国ウェブトゥーンの中から北米市場向けに翻訳される作品が増えている。ウェブトゥーンの海外進出をどう展望するか。

A. 誰も行ったことのない道なので、よく分からない。そんなときはまず出てみなければならない。今は先駆者の役割が必要だ。霧の中では声の大きい人が正解のように見える。政府支援、資本が助けてくれたら、実際に行ってノックしてみなければならない。現地の言葉を聞いてみるのが優先だ。

Q. ウェブトゥーン産業が飛躍的に発展している。漫画産業の発展に向けて改善すべき点があるなら何か。

A. 原稿料が上がらなければいけない。漫画業界は今よりさらに制作費をかけなければならない。新人から中間層の作家たちは確実に引き上げなければならない。原稿料は給料ではない。例えば、漫画家が一か月の原稿料として500(万ウォン)を受け取ることは、事業者の収入だ。スタッフ人件費、取材費など漫画製作に必要なすべての経費を作家が負担している現実を勘案しなければならない。

Q. 世宗大学のマンガアニメーション学科で6年間学生たちを教えている。次世代走者らの実力はどうか。

A. 私を引き下ろす子たちが私の生徒たちだと考えるとあまり幸せではない。そのほど実力が抜群だ。昔ように、作家の門下生に入るシステムとは違って、最近の子たちは学校で自分の作品を着実に描くことができる。オリジナルの自分だけのスタイルを早く構築するため、個性的な作品がたくさん出てくると期待される。

Q. 漫画家を夢見る後輩が多い。漫画家に最も重要な徳目は何か。

A. 諦めないことだ。有名な小説家たちを見ると、インスピレーションが浮かんだ時に仕事し、そうでない時には仕事を休んだりしない。常に仕事をする。ホ・ヨンマン、イ・ヒョンセ先生も絶えず働いた。大変なことは大変なことだ。よしんば、世の中が支えてくれても、自分が(創作を)耐え切れなければなることができない。自分にいつ時が来るか分からないものだ。正直、漫画界には秀でた人たちが多い。少し上手に描くからと優位を占めるのではない。しつこく耐えることが才能だ。

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■ He is...

△1969年光州生まれ △高卒 △20代で野宿 △借金で生活 △私の人生も、未生の連続

幼い頃から絵が上手だった彼は、高1の時に家計が苦しくなって、彷徨し始めた。陽気で気さくな性格で「いたずらっ子」がニックネームだった彼は、当時、思春期を激しく経験し、内面に沈潜する。大学の美術教育科に落ちたあと、当てもなくソウルに上京する。漫画学院があるソウル大峙洞の近くで野宿をして、ホ・ヨンマン作家がソウル江南区大峙洞の銀馬(ウンマ)アパートで住んでいることを知り、根強い要請の末にホ・ヨンマン作家の門下生として画室に入る。

ホ・ヨンマン作家の下で基本技を学んだ彼はデッサンを直接するホ作家を離れ、2年間チョ・ウンハク作家のもとで絵を学ぶ。ユン・テホは「ホ・ヨンマン先生が(漫画の)血と情緒を教えてくれたなら、チョ・ウンハク先生は、骨や筋肉を育ててくれた」という。1993年『緊急着陸』でデビューしたが、 結果は惨憺たるものだった。1998年、社会告発性の漫画『ヤフー』で存在感を知らせた。10年間の長いスランプを経験した彼はウェブトゥーン時代が到来した後、ウェブトゥーン『苔(イキ)』に有名になる。

緻密なストーリーと完成度の高い作画は好評を博した。『未生』から『巴人』まで相次いでヒット作を作った。趣味はサイクリング。グリーンランドのように「荒涼としたところを旅行する」ことを好む。彼の作品を数十年間支持してくれた妻と中学1年生の息子、小学校3年生の娘がいる。
  • 毎日経済_イ·ソンヒ記者/写真=ギムホヨウン記者 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2014-12-20 03:00:07




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