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[モノの哲学] タバコ - 享受のパラダイスと監獄


  • [モノの哲学] タバコ - 享受のパラダイスと監獄
軍隊を経験している韓国の男性たちにとって、このモノの記憶は切なくてやるせない。厳しい労働をしながらも、険しい訓練を受けた後も、このモノと出会う5分の時間は大変甘いものだ。このモノは前後の時間の文脈を極端に切断する。生活の中で時空を瞬間的に無重力化するこの小さなモノは、享有している者自身を現在の人生の時間から断絶し、それを共有する人々を周囲から、「階級」という社会序列から分離して一つの「仲間」として囲む奇妙な能力を見せる。

世界のどこの学校にも休み時間にトイレで、学校の裏山で、奥まった路地で、このモノを口にくわえている青少年を見ることができる。彼らにも、このモノは断絶の経験を提供する。強力で執拗な抑圧にもかかわらず、それを違反している子供たちにとって、このモノはただの日常のモノではない。子供たちはこの小さなモノを使用して社会的に「合意された」タブーに違反することによる喜びを感じ、抑圧の反動心理を突き動かす。ここには、肉体の実際の時間とは無関係に規定された「学生」という社会的アイデンティティが「大人」という時間帯に移る心理的な動線が内包されている。

子供の頃、このモノをくわえている女性を見ることは見慣れない光景だった。路上やバス停では、特に珍しかった。このモノが好きな女性はいたが、匿名の群衆の視線に完全に露出された公共の場では、このモノを持っている自分の露出を気にした。たまにこのモノをくわえバス停の前に男性が立っていて、裏側の奥まった場所で顔色を見ながらこのモノをくわえた女性がいる風景を見ることもあった。大学がこのモノを愛好する女性たちにとって、昔も今も「解放区」であることは変わらない。学校で尊敬されていた師匠が教室で女子学生たちにこのモノを渡して共有していた風景は今でも印象的な記憶として残っている。

「タバコ」というモノがある。多くの人々に瞬間のパラダイスを提供してくれるこのモノを激しい嫌悪の視線で眺める時代になった。どいかにして、このような極端な「価値墜落」が可能なのだろうか。タバコは変わるのはモノ自体ではなく、モノに対する私たちの「認識」であるという事実を簡単に示している。覚えておくべきことは、他にもある。あるモノの享受をめぐる問題は、そのモノが流通する社会の抑圧と認識論的な虚偽が必ず染み込んでいるという事実だ。
  • 毎日経済 ハム・ドンギュン文化評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-01-09 15:52:18




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