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[コラム] 盗作は習作期間にするものだ


申京淑(シン・ギョンスク)作家の盗作騒動を見ていると、新聞社時代の後輩が思い出される。当時、新聞に記名の記事を書くことは容易なことではなかった。一般的な情報を知らせる記事は記事末尾に記者の名前をつけておらず、解説記事やコラム、あるいは美談を書いた箱型の記事にのみ記者の名前が掲載された。

当然、キャリアの短い記者が記名記事を書く機会が多いはずはなかった。偶然に機会が回ってきても、美談程度が精一杯だった。ところが偶然、彼にも順番が回ってきた。取材に出る前から、彼は興奮していた。どのように書くべきか、どうやって取材をすべきかしつこく尋ねた。

締め切りは金曜日だったが、それよりも早く取材を終えた彼は、水曜日の夜から戦々恐々とした。記事をどう書き始めようか、ペンを走らせることができないと、頭をひねった。どのように書くべきかという問いに、取材した内容を聞いてから誰々の作品を読んでインスピレーションを受けろと助言した。

締め切り前の木曜日の夜、彼が検討してほしいと突き出した原稿は、小説をコピーしたものだった。小説のあちこちの文章を取ってきて人の名前と場所だけを変えて書いた100%の盗作だった。後輩もばつが悪かったのか、頭を掻きながらうろうろした。

時間が不足していたため、彼から取材ノートを受け取って、代わりに原稿を書いた。記事は後輩の名前で出された。2~3回同じようなことが繰り返された後、彼は変わった。1年後には、自分の名前で本も執筆した。彼の本を読みながら感心するほど文章力は日進月歩していた。

文章を書くことを学ぶ間、誰もが他人の文章を模倣する。プロ棋士になるためには、誰でも名局100局程度は覚える。画家たちも大家の作品を模写して、作曲家も優れた先輩たちの作品を覚えながら自分の世界を開拓する。

作文の練習をしている間、時には他人の文章で原稿用紙を埋め、夜を明かす。優れた作家になるためにも、優れた構成、素敵な表現を注視する必要がある。

習作の期間中、模倣することは学びの道として考えられている。まだ孵化できず、卵の中で、栄養を供給されるている。しかし、卵から出て、生きていくには、自ら呼吸して餌を見つける必要がある。

創作の道に入った作家が盗作の誘惑から抜け出せないのだとしたら、まだ卵の中にいる状態と変わらない。

盗作騒動の中心に立った作家シン・ギョンスク氏は三島由紀夫の『憂国』について知らないと否定した。読んだことがないと言うよりも、さらに強い否定だ。ところが、どうして同じような表現が入り込んだのか釈明する言葉は見当たらない。

彼女はこの作品だけでなく、いくつかの作品で盗作疑惑に巻き込まれている。彼女の名前を広く知らしめた小説『母をお願い』もドイツの作家ルイーゼ・リンジャー(Luise Rinser)の『Mitte des Lebens』を盗作したという疑惑を受けている。

盗作疑惑を受けている作家シン・ギョンスク氏が大衆に愛される作家という点がさらに惜しい。大衆の愛を維持するために盗作の誘惑から抜け出せなかった可能性もある。しかし、模倣は習作期間にするものであり、他人に見せることができない作品であることをシン・ギョンスク氏も知っているはずだ。

今、これまでの大衆の愛に応えるためにシン・ギョンスク氏がすべきことは一つだ。凄絶に打ち砕かれることだ。彼女が盗作した三島由紀夫の切腹を模倣することはできなくとも、徹底した自己否定だけが彼女を愛した大衆に送るべきメッセージだ。
  • O2CNI_Lim, Chul
  • 入力 2015-06-28 09:00:00




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