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[コラム] 朝鮮初期、なぜ野史の著述が禁じられたのか


高句麗、百済、新羅。朝鮮半島には、この三国が角逐を繰り広げた時期を記述した歴史書が2冊あります。

高麗中期の政治家だった金富軾(キム・ブシク)が描いた『三国史記』と僧侶の一然が書いた『三国遺事』です。『三国史記』は正史、『三国遺事』は野史に分類されます。王室や国家が正統だと認めた正史とは異なり、民間人が著した野史は信頼できるものではないという認識が暗に敷かれています。

国民の激しい抵抗により崩れた権力ではない以上、新しい政権は前任者の後を継ぐ嫡子であることを示したがることでしょう。善悪を置いておいても、一時代の正史は次の時代の歴史家が一番最初にページをめくって参考にするべき歴史として認識されています。

野史だけで歴史を見てしまっては異端として扱われがちになります。それでも野史は昔から着実に編纂されてきました。朝鮮半島の野史の著述は遠く新羅時代までさかのぼります。

高麗時代には『三国遺事』のほか、非常に多くの野史が執筆されました。このうちの相当数は、名前だけ伝えられるだけで、内容を知ることはできないため、後代の歴史家たちを残念がらせています。

その後、朝鮮時代になり、野史の脈が切断されます。燕山君の日記に「高麗には、野史があったが、我朝になってから廃止された」という内容が書かれていることからも確認することができます。16世紀に入ってから、朝鮮でも野史が再び執筆され始めました。

朝鮮時代の初期に野史の発刊がなくなった理由は簡単です。高麗の王氏を権力の座から追い出して、王権を横取りした李氏としては、彼らの主張する易姓革命の大義とは異なる解釈を放っておくことができなかったからです。

このように歴史編纂には、著述家の見解が反映されます。事件がなぜ起こったのか、他の選択肢はなかったのか、事件の影響で人々の生活はどのようにに変わっかのかを六何の原則に基づいて書こうとすると、いくら客観的に書こうとしても主観的な判断を除外することはできません。どの事件を記録・除外するのか、どの事件を重要視するのかさえ主観的な判断です。

東アジア歴史書の典範とされる司馬遷の『史記』を巡っても、虚勢される宮刑を受けた悔しさを晴らすための「誹謗の書」と見る見方があるくらいです。

今、韓国で中学・高校の教育の現場で読まれている野史を取り除いて、正史で統一させようという作業が行われています。国定教科書編纂に反発して、歴史学会が代案の教科書を発刊すると明らかにしたところ、法的措置を検討するという立場を発表しました。

現在、韓国社会を分断している国定教科書の問題について、野史を禁じた朝鮮初期について考えをめぐらせてみます。歴史家の評価を恐れるには、まだ歴史が終わってもいないようなのに、まるで、新しい王朝が生まれたかのような気分にもなり、妙なことです。
  • O2CNI_Lim, Chul
  • 入力 2015-11-08 08:00:00




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