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[筆洞情談] 新春


  • [筆洞情談] 新春
「1月になると新春は来たのだ。真夜中を超えれば日が真っ暗でも明け方になったのと同じ。天気がいくら寒くても1月は春だ」

琴兒皮千得(ピ・チョンドク)は、随筆『新春』で真冬に迎える新春のときめきをこのように記している。新春は近頃はあまり使われない表現だ。かつてはその用例が結構使われた。

新春文芸が代表的で、新春音楽会や新春セミナー、新春展示会、新春特選のような言葉もしばしば使われた。最近では、新春文芸を除いてあまり使われない。

子どもの頃、新春という言葉に接するたびに、「なぜ真冬に春の話なのか」という疑問を抱いた。今は旧正月と立春が似たような時点であることから始まった言葉として推測する。一、二世代前までは旧正月を過ごしてこそ本当の新年になったものと考えていた。また、旧正月を前後して、二十四節気の始まりであり春の敷居である立春がある。二十四節気は太陽暦に基づいたせいで、毎年陽暦2月4日または5日が立春だ。ある年は立春が旧正月に先立ち、ある年は後からついて来る。要するに年と節気が同時に変わる時点がこの頃だ。前の世代の新年は、新春と重なったものだ。新年と新春を一緒に迎えるさわやかなときめきを盛り込んだ言葉が新春だ。

現代に移りながら、旧正月が持つ新年の開始点としての意味は多く衰退した。そのため、しばらくの間、陽暦の正月と旧正月の区別なく新春という表現を使った。陽暦の正月に使う新春は、新年の意味を強調するだけで新春を盛り込むにはどこかぎこちない。立春まで1カ月以上の時間的間隔が存在するためだ。そのようなぎこちなさが新春という言葉を徐々に使用しなくなった背景ではないかと思う。しかし、新春を新年に置き換えると、なんだか寂しい。新年には、新春だけの生命力と爽やかさがない。

個人的には、新春を以前のように頻繁に使って欲しい。真冬に春のことを言うことはそれ自体が希望だ。皮千得は、「鏡を覗く時や人を眺める時もいつも笑った顔をする」という新春の誓いをしている。新聞屋としての望みなら去る秋と冬にあまりにも詠み、うんざりで古くなった名前をすべて取り除いて、清新だったり懐かしい名前だけで紙面を埋めたい。今年太陽が経度315度にかかる立春の時点は2月4日0時34分。まさしく新春だ。
  • 毎日経済 ノ・ウォンミョン論説委員 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2017-01-30 17:01:02




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