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もっと! コリア (Motto! KOREA)
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  • Q.
    ソウル共和国という言葉はどうして生まれたのですか?(上)
  • A.
    下の地図は、2009年6月7日にオークションサイト「オークション」に出た『新大韓民国全図』です。この地図は、ニューヨークで活動する広告制作者イ・ジェソクさんの作品ですね。

    この地図を見ると、韓半島(朝鮮半島)の南側にはソウルしかないでしょう。残りの地域は全部海に沈んでしまいました。日本人の中には地震や火山噴火などの自然災害で日本列島が沈没したのではないかと心配する人もいるといいますが、韓国はすでにソウルだけを残して沈没してしまった格好です。

    地図が意味するところは明らかですよね。外から見ると、韓国はソウルだけです。人や物資、権力、企業、文化芸術などが丸ごとソウルに集中しているため、首都圏だけが発展するだけで地方は眼中にもないという意味でしょう。最近では、首都圏でもソウル、ソウルでもいわゆる江南、瑞草(ソチョ)、松坡(ソンパ)などの江南3区に社会間接資本が集中的に投資され、生活の豊かな人が集まっているため、ソウル共和国から一歩進んで、江南共和国に変わる傾向でもあります。

    人や物資が首都ソウルに集中する現象が経済発展の副産物として、ある日突然生じたのではありません。遡れば王朝時代から、すべてがソウルに集中していました。ソウルの北方であれ南方であれ、ソウルから出て行く車は下り、ソウルに行く交通は上りと呼ばれることからも、ソウル共和国の深い根が感じられるでしょう。

    「馬は済州に、人はソウルに」という言葉にもソウル共和国の匂いが染みついていますね。韓半島の中央集中現象は、高麗と朝鮮王朝が地方勢力の横行を防ぐための牽制政策の影響もありますが、17世紀末の庚辛大飢饉の影響が絶対的でした。

    1670年(庚戌年)と1671年(辛亥年)の2年にわたる大飢饉は、欧州の歴史を変えたペストの朝鮮版でした。朝鮮人口の10%が飢饉で死亡しました。生き残った人も空腹に苦しみ、死の境界を何度も超えたことでしょう。

    1670年の1年間には、冷害、干ばつ、風害、病虫害などのあらゆる自然災害は、韓半島全域を追い込み、飢え死にしないために住んでいたところを捨てて放浪し始めました。翌年にも状況は改善されませんでした。全国の餓死者を1万人単位で集計するほどにもなりました。

    伝染病が猛威を振るい、ソウルを離れる人も多かったですが、それでも君主が住んでいるソウルに食べるものがあるというため、流民たちが集まってソウル共和国の序幕を開きました。

    韓国戦争中に一時首都だった釜山に避難民が押し寄せ、60年代以降、工業化の風に乗って東南圏工業都市が繁栄しましたが、1980年代以降に再び「ソウルに~」の現象が加速されました。1997年に韓国経済を揺るがした通貨危機は、ソウル行きを催促しました。庚戌大飢饉に食べ物を求めて流民たちの力のない足取りがソウルに向かうように、それでも仕事があるソウルに居所を移したのでしょう。

    現在、大韓民国の人口5000万人のうち、ソウルに居住する人は約1000万人。これも過度なのにさらに看過できない事実は、事実上、ソウルの生活圏である京畿道と仁川市の人口を合わせると2500万人が首都圏に集中しているという点です。

    文化芸術も首都圏に集中しています。人のいるところにお金があり、お金のあるところで文化芸術盛んになるはずだから、自然現象でしょう。

    首都圏集中現象は、あらゆる種類の問題を注いでいます。せめてソウル、もう少し広く捉えれば、首都圏に住んでいなければ恋愛することも難しいほどです。

    解雇のリスクがほとんどないうえ、報酬も大企業に劣らず夢の職場だと呼ばれていた公企業が地方に移転した後、公企業に勤務する独身社員たちには縁談も減ったという声が聞こえます。近いうちにソウルに発令が出る予定だと言い繕ってこそ、異性の友人を紹介してもらえるのを考えれば、最初から社内に目を向ける人が増えたといいます。

    ソウル共和国の問題点と地域不均衡の解消方案などは、次回に続きます。

    ※この記事は「ソウル共和国という言葉はどうして生まれたのですか?(下)」に続きます。