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ハリムのキム・ホングク会長…ヒヨコを育てていた少年が畜産業界のゴッドファーザーに


  • ハリムのキム・ホングク会長…ヒヨコを育てていた少年が畜産業界のゴッドファーザーに
「6人兄弟のうち、私以外はみんな公務員です。私だけが突然変異だったのです。両親の反対にも畜産業の道に進んだのは、適正にあっていたからです。両親の言うことを聞かなかったことが、逆に成功秘訣になったのです」。ハリムグループのキム・ホングク会長(57)に国内最大の畜産企業を素手で成し遂げた秘訣を聞いたところ、返ってきた答えだ。

キム会長が畜産業の道に進むことになったのは、とても小さな契機からだった。小学校4年生の時、母方の祖母が買ってくれたヒヨコ10羽を育てるのが、とても楽しかった。当時は飼料がなく、直接カエルを捕まえ、スズメノテッポウをむしってヒヨコを丹念に育てた。ヒヨコがまるまるとした鶏になったので、市場で一羽あたり250ウォンで売った。原価がまったくかからなかったのに、2500ウォンを稼いだのだ。ラーメンが20ウォンだった時代、10歳の子供には相当な大金だった。鶏の飼育と商売が面白くなったキム会長は、そのお金でまたヒヨコ100羽を買った。それからまた鶏を売り、今度は豚を18頭飼った。小学校にあった飼育部に入り、鶏を上手に育てる方法を研究したりもした。たったの12歳、小学校6年生のときのことだ。

「もともと動物が好きだったのですが、お金まで稼ぐことができるので、もっと面白かったのです。学校に行ってから家に帰ると、鶏と豚の飼育にだけ没頭するほどにはまりました。さらには両親の反対を押し切って、農業高等学校に進学し、世界の農村青少年連盟人『4Hクラブ』と韓国営農学生会(FKK)活動もし、本格的な畜産業の道に進むことを決心しました」

中3のとき、班長にもなり成績も校内で上位圏だったため、両親の反対が激しかった。小学校の教師だった母は彼が他の兄弟のように人文系の高校に進学することを願った。しかし、キム会長は家出まで強行して、意志を曲げなかったところ、結局両親も「お前の好きにしなさい」とあきらめた。

紆余曲折の末、農業高等学校に進学したキム会長は、18歳(高3)になると、税務署に事業者登録証を出し、本格的に事業を開始した。資本金4000万ウォンで全羅北道益山市黄登面に農場を作り、「農場主」になった。キュウリ、トマトなどを育てる農業も一緒に行った。当時飼育していた種鶏が5000羽、豚が700頭が超えるほど、事業の規模が大きかった。10人が超える40~50代の「おじさん職員」たちが「学生社長」だった彼の決裁を受けるために学校に訪れるほどだった。先生よりも収入が多く、学生であるにもかかわらず250ccのオートバイを乗り回した。20代の前半まで事業は順調だった。

突然の危機は25歳になった1982年に訪れた。豚と鶏の値が暴落して、突然借金の山を抱えることになった。年利率60%台の高利貸しまで使い、事業を意欲的に拡張しようとしていたところだったため、打撃が大きかった。借金取りを避けて、豚舎の一角に蚊帳を張って寝るほど、切歯腐心の時期を過ごさなくてはならなかった。食品会社の営業社員として仕事をし、元金と利子をすべて返すのに6年かかった。

「まったく完全に潰れました。畜産業に進出したことを後悔するほどでした。でも、座り込んでいるわけにはいきませんでした。スーパーに行ってみると、豚の値段は暴落したのに、ソーセージの価格は変動していないということが目に入ってきました。豚や鶏など、1次産業である畜産物は価格変動が激しくても、2次産業である加工食品は価格が安定していることを知り、加工食品業に進出しなくてはと決心しました」

1986年、ハリム食品を設立した背景だ。タイミングは的中した。アジア競技大会(1986年)とソウルオリンピック(1988年)が続けて開催され、ヤンニョムチキンのチェーン店が人気を集めながら、鶏肉の需要が爆発的に増加した。一日にだけで2000万~3000万ウォンずつ稼いだ。このようにして10年間事業はばら色の道を走り、1997年にコスダック(KOSDAQ)にも上場した。

2回目の危機はIMF外換危機の時だった。景気の低迷で消費が萎縮し、売上げが急減した。全羅北道益山に420億ウォンをかけて増築した最新式の大型食肉加工工場の稼働率が、がっくりと落ちた。その間に10%内外だった利子費用が28%まで急騰した。すぐにでも不渡りが出る状況だった。藁をもつかむ思いで世界銀行、国際金融公社(IFC)に投資誘致を申請した。2か月間の調査の末、IFCは2000万ドルの投資承認を確定した。IFCが国内企業に投資したのは、ハリムが初めてだった。キム会長の事業に対する格別な情熱、そして生鮮肉と加工肉を一緒に生産するハリムの効率的な経営構造が高い評価を受けたおかげだった。

「当時、会社を実査した担当官が、私たちの経営構造を見て『State of Art(芸術的な境地)』だと言いました。この事業モデルで、他の国で同じように事業をしてみようという提議をしてくるほどでした」

再起の足場を準備したハリムは、その後、養鶏関連の事業の垂直系列化に拍車をかけた。畜産飼料加工業者『グリーンバイテック(1999年)』と『天下第一飼料(2001年)』をそれぞれ設立、買収して、農産水産物の専門のショッピングモールである『NSホームショッピング(2001年)』を出陣させた。既存のハリム食品などが飼育と屠畜、肉加工などをなどを担当したとしたら、飼育と生産、流通の前後の事業まで完全に統合したのだ。これは、キム会長が1982年の豚騒動で初めて危機を経験したときから構想していたことだった。農場(飼料生産、飼育)-工場(屠畜、加工)-市場(流通)などを垂直系列化したことについて、ハリムは「3場統合経営」と呼ぶ。2001年には会社もグループ社体制に転換した。

このとき、思いもよらない危機が訪れた。2003年に火災で工場が全焼したのだ。泣き面にハチの状態で、鳥インフルエンザ(AI)まで全国に広がった。また、鶏肉の消費が急減した。

「こと時が一番厳しかった時期でした。周囲ではみんな会社がすぐに潰れるだろうと言い位ました。でも、私は危機の中に機会があると考えました。お金を借りに訪れた銀行で『工場がなくなったのは、生産性の高い工場を建てることのできるいい機会』だと説得しました。ようやく融資を受けて、会社を再度正常化した瞬間の感動は忘れることができません。挑戦的な状況で『この程度で満足だ』と思ったのですが、市場は常にそれ以上の結果を返してくれました。このときが、企業人として一番幸せな瞬間ではないでしょうか」

その後、事業は順調に成功した。経済成長と肉類中心の食習慣の変化で鶏肉の需要が増加し続けた。1970年、1.4キログラムに過ぎなかった、国民一人当たりの年間鶏肉消費量は、去る2012年11.6キログラムへと42年間で8倍以上増えた。3場統合で、垂直系列化をなし、最新式の大型工場で規模の経済まで備えたハリムとしては、高度成長の機会を迎えたということだ。鶏肉を初めとして、肉類食品の需要に効率的に対応し、2000年代のハリムは国内最大の畜産業者としての地位を強固たるものにした。

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  • < ハリムグループのキム・ホングク会長が、去る7月31日、参鶏湯のアメリカ輸出記念式で記念の辞を述べている >

今、キム会長は「国内1位企業」というタイトルに安住しないと考えている。世界のどこでも工場を建てることができる上に、FTAで関税の障壁も消えている無限競走時代であるだけに、グローバル企業との競争を準備しなくてはいけないという覚悟だ。特に「国内畜産業のグローバル化」に対して、キム会長は言いたいことが多い。まず、広い農地を誇るアメリカや中国に比べて、韓国は「規模の経済」において押されているため、品質競争力を引き上げることが最優先だと強調した。

「昨年のアメリカ最大の畜産物加工企業である『タイソン(Tyson)』の屠畜処理羽数は21億2700万羽に及びます。去年の韓国全体の屠畜処理羽数(7億9000万羽)の3倍になる鶏を単一の業者が処理したということです。このように大きな会社と競争しようとしたら、国内1位企業ということに満足してはいけません。規模の経済が弱く、費用競争力はグローバル企業の80%水準であっても、品質と生産性は120%に引き上げなくてはいけません。グローバル企業の製品は遠く海を越えて輸入されてくるため、その分品質が落ちることもあり、やってみる価値はある競争です」

キム会長が診断する国内畜産業界の問題点は3つ…小規模農家、労働集約的、非資本家的思考

「人々はよく、韓国の畜産業が大変だと言います。しかし、この3つの思考を変えなければ、どんな産業もダメです。規模の経済を成すことができず、設備投資に消極的で、市場論理を無視することが問題です。兄弟間でも一度や二度は買ってくれても、経済性がなければそれ以上は買ってくれません。国内の畜産従業者も一日も早く、起業家的・設備集約的、資本家的な思考に転換しなくてはいけません」

そこで、キム会長が提示するベンチマーケティングモデルはオランダの畜産業だ。積極的な加工貿易を通じて、グローバル競争力を備えなければならないという主張だ。

「オランダは韓国よりも国土が小さく資源も不足し、食料自給率が23%を満たしません。日照量も不足し、オレンジ一つでさえ栽培することができません。それでも、オランダはヨーロッパのオレンジ市場の60%を掌握しています。南米からオレンジを5万tずつ船でロッテルダム港の果物専門埠頭(第6埠頭)に積んできて、小さな単位で再包装したり、近郊の食品工場で加工して、ヨーロッパに輸出する方式です。オランダの農産品貿易黒字が年間350億ドルに到る秘訣です。反面、韓国では年間200億ドルの赤字です。我々もオランダのように起業家的思考で武装し、東北アジアの市場で農畜産物加工貿易を活性化しなくてはいけません」

アメリカ工場の買収など、グローバル化に拍車

ハリムが2007年から海外進出を積極的に推進し始めたのも、このような理由からだ。フィリピンに飼料工場を持つ飼料専門業者『ソンジン(SunJin)』を買収、系列社『天下第一飼料』を通じた中国蘇州地域『ハリム飼料有限公司』の設立、年間売上高1兆ウォン突破などが、全て2007年に成し遂げられた。2011年11月にはアメリカの鳥肉加工業者『Allen Familly Foods社(現:Allenハリムフード)」を買収してアメリカ市場攻略に出た。

「アメリカ、中国、ベトナム、インドネシア、フィリピンなど、海外のいたるところにハリムの工場が進出しています。まだ飼料工場や養豚農場が中心ですが、いつかは現地で屠畜、加工して食品を供給する日が来るでしょう。昨年に全体の15%だった海外での売上高が10年の内に国内売上よりも多くなるでしょう」

米の加工、鶏卵の流通など、新事業も活発

製品の多角化も推進し続けている。ハリムは昨年から、コメの加工食品と、鶏卵の流通など、新事業に進出した。ハンバーガーなどの小麦粉食品と肉類の消費が増え、国民一人当たりの米の消費量は減少しているが、1人世帯増加により、ヘッパン(レトルト米飯)やコッパッ(コップ飯)など、米を加工した食品の消費が逆に増加しているという判断からだ。このため、年内に全羅北道益山4産業団地内にコメの加工食品生産ラインが含まれた総合食品工場を着工する予定だ。現在、約2万坪の工場敷地を確保し、建築許可も受けた状態だ。投資予想金額だけで1100億ウォン、直接雇用予想人員は340人に登る。

9月からは、アメリカに参鶏湯輸出も進行する。ハリムはアメリカの流通業者2社と手を取って、アメリカ全域1500店舗のマートで冷凍食品とレトルトの2タイプの参鶏湯製品を販売する予定だ。すでに去る8月初旬にハリムの参鶏湯製品をのせたコンテイナー船がアメリカに出発した。韓国畜産物がアメリカに輸出されるのは今回が初めてだ。去る2004年4月、アメリカ輸出の道を開いてほしいと政府に要請してから10年、韓米FTAが批准してから5年目の快挙だ。在米の韓国人や東洋系アメリカ人、ヒスパニックなどが主要ターゲット層だ。目標の売上高は今年100万ドル、5年以内に1億ドルだ。

「売上高だけで判断すると、アメリカ参鶏湯輸出が占める部分はそれほど大きくありません。重要なことは、世界で一番厳しいと評判のアメリカ畜産物検疫を通過したという点です。今後、ヨーロッパ、中国など、大きな市場に進出するための食品安全性を世界的に認定されたというところに意味があります」

ヒヨコを育てていた少年から、年間売上高4兆ウォン台の国内最大食品企業の首長になった彼が常に強調していることは「適正」だ。自身が畜産に面白味を感じて成功したように、だれでも適正にあった仕事をしてこそ、仕事を楽しみながら上手にこなせると言う意味だ。

「万能人として生まれる人はほとんどいません。誰にでも自分だけが最も上手にこなせる役割があります。それがまさに適正です。それにもかかわらず、それぞれの適正を無視して、みんなが医者や判事になろうとするから、苦しくなるほかありません。人は適正に合った仕事をする時に創意力が現れ、幸せになれると信じています」

■ He is…
1957年生まれ / 裡里農林高等學校 / 湖原大学経営学科 / 全北大学経営大学院経営学修士 / 1978年全羅北道益山黄登農場設立 / 1986年(株)ハリム食品設立 / 1990年(株)ハリム設立 / 2001年ハリムグループ会長(現)/ 2008年国家競争力強化委員会委員 / 2013年 韓国中堅企業連合会副会長(現)
  • 毎経エコノミー
  • 入力 2014-08-11 10:35:35




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