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[モノの哲学] 黄色いリボン、「事件」のその後


  • [モノの哲学] 黄色いリボン、「事件」のその後
今春の空は、なぜこんなにもいじわるで気まぐれなのだろうか。桜は一晩にして風雨で散り、モクレンも白い顔を出してすぐに頻繁に吹き寄せる時期外れの風のせいで欠けてしまった。花が咲く前に花が散る春だ。

自動車道路で出勤しながら、黄色いリボンが吊るされて揺れているのを見る。ソウル・江辺道路が始まる岩寺大橋の付近から江辺道路の終わり付近にある幸州大橋付近までの道横に続いている黄色いリボンを見る。黄色いリボンは手を振って、黄色いリボンはさえずって、黄色いリボンは明るく笑う。黄色いリボンは、天真爛漫で純真だ。それは間違いなく子供の色だ。春の色だ。会えると嬉しい。

しかし、黄色いリボンは風が吹くと、突然騒ぐ。小さな花びらが激しく揺れる。枝から離れて空中に飛んで行き、ある地点で、行く先を知らずに散らばる。空中に散った黄色いリボンは、そこでかすかに手を振る。桜の虚無よりも小さな手振りは、春を迎える挨拶ではなく、別れの挨拶だ。しかし、別れの挨拶ではないこともある。

韓国人が愛する現代詩の1・2位は、いつも金素月(キム・ソウォル)の『つつじの花』だった。悲しいのに悲しみを表現していない、あの切ない愛の色が韓国人の春色の情緒を代表するという意味でもある。しかし、2014年以降、韓国人の春色は大人の男女のものというよりは、子供たちの色に変わった。春を代表する花はツツジや桜やモクレンではなく、「レンギョウ」だ。しかし、江辺道路を走るときに出会ったこの花により私たちは、必然的に「黄色いリボン」を見ているような錯視を繰り返すことになるだろう。

偶然、4月16日に約束の日時が決まった夕食の席で、ある先輩がその席を終えながら「落ちる花 / 木の枝に帰る / 蝶々かな」という俳句を祈りのように詠んだ。レンギョウから黄色いリボンを見出そうが、そしてその黄色いリボンからさなぎを脱いで飛ぶ蝶を見出そうが、私たちの心の中の春色は変わった。私たちの春は、今2014年以前に戻ることができない。

モノに対する感受性を「以前」と「以後」に明確に分ける切断面、これを哲学者のジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)は、「事件(evenement)」と呼んだ。「事故(accident)」は「処理」されれば終わるが、「事件」は執拗に「解釈」なければならない。事故は偶然だが、事件は必然性を内包しているためだ。
  • 毎日経済_ハム・ドンギュン文学評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-04-17 16:21:24




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